2005.06.17
『七人の侍』、やはり敗戦(まけいくさ)だったな ──対『武蔵』裁判 第2ラウンド
2004年12月24日に 一審判決があった NHK 大河パクリドラマ『武蔵 MUSASHI』裁判の話。訴えたのは『七人の侍』黒澤久雄氏(故・黒澤明監督の長男で、現在は妹の黒澤和子氏とともに黒澤監督の著作権を相続している)で、一審では主張が認められず『武蔵』封印と権利料支払いは叶わなかった。その司法判断は著作権の解釈として ごく一般的なものだったが、黒澤氏は「これが判例になれば、著作権が成り立たない」として一審判決後すぐに控訴していた。
で、第二審判決である。 2005年6月14日、 知財高裁で言い渡された。
http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/d36216086504bdc349256fce00275162/dbbe8c09ffee655349257021001dcc88?OpenDocument
「H17. 6.14 知財高裁 平成17(ネ)10023 著作権 民事訴訟事件」
(知的財産権判決速報 - 最高裁サイト)
▲ 個人名を伏せた上で掲載された判決文。
周知の事実なので付記しておくと、
Aが黒澤久雄氏、Bが黒澤和子氏、Cが鎌田敏夫氏(脚本家)、
Dが故・黒澤明 監督である。
http://blog.livedoor.jp/hayabusa9999/archives/25340840.html
「大河ドラマ『武蔵』番組公衆送信差止等請求控訴審判決」
(駒沢公園行政書士事務所日記)
▲ ネタ元。ここで判決の概要がまとめられているので、
判決文に当たる前に目を通すことをお薦めする。
──二審も一審と同じ結果だった。つまり「本件控訴をいずれも棄却する」と。
わぁい、また敗戦(まけいくさ)だ。『七人の侍』を地で行ってるね(もちろん皮肉)。
二審判決文を読む。
今回の判決文は、前回に比べると短い。事実関係等 詳しいことは東京地裁による一審判決文に任せてあり、今回は新たに争われた部分(と言っても一審判断の解釈をめぐる争点だが)だけが述べられている。
一審判決文については、以前に詳しく採り上げたことがある。さらりと おさらいしておくと、『七人の侍』と『武蔵』との間で類似していると(黒澤氏側から)指摘されたのは、村人が侍を雇うという基本的ストーリー、『七人の侍』を連想させる 11箇所の類似点(これは一審判決後に公表された黒澤氏側のコメントを参照のこと)、登場人物の位置付け、霧や豪雨といった戦場の描写──である。しかしいずれも類似しているとは認められないか、表現ではなくアイディアの類似と判断された。つまり黒澤氏の主張は全く受け入れられなかった。
描こうとしているものが違えば表現も違う。『七人の侍』と『武蔵』には細かい類似はあるけれども、それは本質的なものではない。この手の盗作裁判に共通する要件「著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得するものであるか否か」が問われているのだ。
こうした流れを覆すために黒澤氏側が出してきたのは「はめ込み型模倣」「象徴型模倣」という概念だった。後者は一審での主張を踏襲したもの、前者は“新ネタ”だ。一審判決の内容に合わせて捻り出したものだろう。
被控訴人(引用者注; NHK 側)らは、テレビドラマである自らの作品の一部に、「七人の侍」のストーリー及び象徴的な場面を、一種の劇中劇のような形で取り込み、はめ込んだものであって、それによって被控訴人らの大河ドラマが全体として影響され変容したものではない。このような「はめ込み型模倣」は、これまでの裁判例にはなかったものであって、従来の手法による対比は有効ではない。
※ 二審判決文より、黒澤氏側の主張から引用。
そして、著名な著作物と似ないような作品作りの義務が後年の創作者にはあるとし、また「感得するものであるか」の判断は著名な著作物については緩くすべきだと主張した。もちろん、裁判所はあっさりと この論を否定している。
──特にまずかったのは、黒澤氏側が「著作権法においても、類比の判断に著名性を考慮することにより妥当な結果が得られることになり、盗作と認定するための類似性の程度は、原著作物の著名性と反比例すると考えられる」としたこと。こんな主張を裁判所が採用するはずがない。「著作権法上、著作物が著名であるか否かによって、その保護に差異があるということはできない」と無碍に否定された。
結果、原判決の判断を支持して二審も『七人の侍』敗訴である。
──虚しい。
これを「敗戦(まけいくさ)」と呼ばずして何と呼ぼう。この流れを覆すことなど(よほどの新ネタを用意しない限り)出来やしないというのに、却って傷口を広げる黒澤氏側。一審ではパクリ者としての強弁が目立っていた NHK 側ですら、二審では黒澤氏側の論理矛盾を突く正論を(余裕を持って)展開しているのだ。
控訴人(引用者注;黒澤氏側)らは、侵害されたとする著作物が著名な作品である場合には特別な配慮がなされるべきであると主張するが、作品が著名かどうかによって著作権法上の保護の範囲に差が生じる理由はない。著名な作品であるからといって、アイデアや単なる設定の類似について、著作権侵害を主張することができるようになるわけではない。
控訴人らは、後続の創作者には、先行する著名作品との類似を避ける義務があると主張する。確かに、後続の創作者が先行する作品に依拠し、かつ、表現においてそれと類似する作品を創作することは許されないが、著名な作品とのアイデアないし設定等の類似を避けるべき義務は、後続の創作者に課せられていないし、課せられるべきでもない。(中略)著作権法が、特許法等と比較して、いわば無造作に、しかも極めて長期間の独占権を付与していることを正当化できるのは、その独占権の対象が具体的な創作的表現に限られており、思想やアイデア等を公有のものとする前提が採られているからである。
控訴人らは、原判決が認定した表現上の相違点を自認しながらも、それらの相違は、「はめ込み型模倣」等の当然の帰結であるとして切り捨て、アイデアや設定の類似に注目させようとしている。しかし、異なる部分を切り捨てて、類似の部分だけに注目すれば、いかなる場合であっても常に類似しているということになるから、そのような判断手法が著作権侵害の成否判断において正当な主張であるということはできない。
控訴人らが「はめ込み型模倣」等の当然の帰結として切り捨てた結果、類似点として残るのは、いずれもアイデアやありふれた設定であり、それらは公有のものである。
どうしてこんなことになってしまったのか。
正論を主張して堂々とすべきは『七人の侍』側だったのではなかったか。パクリ野郎から ここまで堂々と反撃される屈辱。そう、これ以上の屈辱は無いほどの敗戦。完膚なきまで叩きのめされた敗戦。
──敗戦。
新聞報道によれば、「上告の方向で検討する」ということだが、果たして。これ以上続けても、勝てる見込みは無いのではないか。ただただ傷口を広げ、恥をさらすのみ。
七人の侍は弱き者のために「敗戦」を戦った。しかし、この裁判には闘い続けるだけの大義はあるだろうか? もう やめようよ。見ちゃいられないよ。
ここからは余談。黒澤氏側の主張で非常に引っかかる部分があったもので。
本件において誤認・混同が生じるのは、著作物の芸術的価値である。著名な作品(そのストーリー、象徴的場面及びそれらの組合わせ)には、有名ブランドと同様に、顧客吸引力がある。それは、リメイク権、ゲーム化権等の翻案権のライセンス・販売という形で利用され、経済的価値を有する。リメイクについてみると、著名作品がその対象となる理由は、作品を構成する各要素が優れた芸術作品を作り出すために有用であることが実証されているというところにある。さらに、著名作品を既に鑑賞して満足した顧客は、リメイクによってその満足感が再現されることを期待するので、新作を新たに宣伝し浸透させるための努力と費用を省くことができる。
「リメイク」が傑作だった例は非常に少ない。それは黒澤作品であっても同じなのだ。『七人の侍』だってその証明になる。近年、黒澤作品のアニメリメイク作(『七人の侍』や『用心棒』など)が登場したりしているが、「作品を構成する各要素が優れた芸術作品を作り出すために有用であること」の見事な反証となっているのだ。黒澤ファンからすれば、あれは「原著作者の名誉・声望を害する」ものにしか見えないのだが(注;かなり意図的に曲解してます)。
しかも納得しがたいのは、法的には正当であっても、そのリメイク権をライセンスしているのが著作者本人ではないという事実である。黒澤監督自身が許しているのなら まだしも諦めもつくというものだが、著作者の死を境に こうした身も蓋もない金儲けが始まってしまうことに複雑な気持ちを抱かざるを得ない(『ドラえもん』とかもそうなんだよなぁ)。
その一方で、このような無理な訴訟を続けている。大義はどこにあるのか。そう言えば、映画著作権の保護期間が延びたことで得をしたのもまた『七人の侍』だったな。
──黒澤映画のイメージを損ねているのは一体 誰か。
少なくとも、『武蔵』じゃなかろ?
投稿:by 暇人#9 01:19 午後 [映画(ビデオ含む)] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.12.31
『七人の侍』 vs 『武蔵 MUSASHI』 裁判の判決文を読む
(Rev. B: 2005.1.6)
『七人の侍』を盗作したとして、『武蔵』の脚本家・鎌田敏夫氏と NHK を相手取った裁判の話。これは以前に採り上げたように、東京地裁判決で原告(黒澤久雄氏ら)の訴えが棄却された。その後、彼らは控訴したと伝えられている。
件の問題を知る上で必要な資料が地裁判決文である。これを読めば裁判の争点・双方の主張・裁判所の検討の詳細などが判るようになっている。何せ新聞報道では「酷似する」点や裁判所の判断を大まかにしか伝えていない。是非とも詳しく知りたいと思って最高裁のサイトで検索したら、「知的財産権判決速報」とのことで判決文が意外に早く掲載されていた。そこで、別立ての記事として本裁判の全体像を整理してみたい。
http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/
c617a99bb925a29449256795007fb7d1/
3640e47fbe3876d549256f77000c55b7?OpenDocument
▲ 見出し「知的財産権判決速報」。
「H16.12.24 東京地裁 平成15(ワ)25535
著作権 民事訴訟事件」。
──ただし、私はあくまでも法律専門家じゃないから、そうした方面での考察は期待しないように。判決文をそのまま素直に読んで、事実関係の整理をするだけなので悪しからず御了承のほどを。
【裁判の当事者】
平成15年(ワ)第25535号番組公衆送信差止等請求事件
(口頭弁論終結の日 平成16年10月7日)
判 決
原 告 A
原 告 B
原告ら訴訟代理人弁護士 乗 杉 純
同 木 内 千登勢
被 告 日本放送協会
被 告 C
被告ら訴訟代理人弁護士 前 田 哲 男
同 中 川 達 也
同 手 島 康 子
同 梅 田 康 宏
※ リンク前掲の判決文より引用(整形しています)。
判決文の中で個人名は伏せられているのだが、彼らの素性が一緒に明らかにされている上、新聞報道でも実名が出てきているので、ここで触れない理由はない。よって補足しておこう。
「黒澤明の子は、原告A(長男)及び原告B(長女)の2名である」との記述が判決文にあり、Aが黒澤プロ社長・黒澤久雄氏、Bが衣装デザイナー・黒澤和子氏であることが判る。2人とも故・黒澤明監督の(本件では『七人の侍』脚本の共同著作者としての)著作権を相続している。その権利に基づく提訴ということだ。
「被告C」は、「脚本家として活動する者である」とだけ判決文で触れられているが、朝日新聞の記事 (2004年12月24日付) で「脚本家鎌田敏夫氏を相手に」との記述がある(朝日記事を引用してあるここを参照のこと)。
3人とも名前を出して公に活動している人たちなので、私の文章の中では実名で表記し 特に名前を伏せるということはしない(ただし判決文を引用するときにはAなどのまま)。
【請求内容】
●番組『武蔵』の複製・上映・公衆送信・頒布・
翻案の差し止め
●脚本『武蔵』の複製・公衆送信・出版・譲渡の差し止め
●番組『武蔵』のマスターテープ・複製物の廃棄
●1億 5400万円と 平成15年1月5日から 支払い済みまでの
年5分の金員支払い
──えらく厳しい請求じゃないか。ただ「金払え」ってだけじゃないという。
判決では全て棄却されているが、控訴するときも同じ請求で行く気なのだろうか? ここまで求める黒澤久雄氏らに、私としては首を傾げざるを得ない。『武蔵』を葬り去るのではなく、原作者として追加表示させるなどの方法もあるというのに‥‥。そんなに『武蔵』を憎んでいると? 存在しないで欲しいと?
ちなみに、賠償金額の「1億 5400万円」 の根拠としては、
原告脚本及び原告映画(引用者注:『七人の侍』のこと)の世界の映画史に占める地位及び昨今の亡黒澤(引用者注:もちろん黒澤明監督のこと)の人気にかんがみると、原告脚本が米国においてリメイクのためにライセンスされた場合の対価が、 200万ドル を下回ることはあり得ない。
原告脚本は、亡黒澤、橋本忍及び小国英雄の共同執筆による係るものであるが、亡黒澤は、岩波書店刊「全集黒澤明」出版に際し、共同執筆者全員と取り決めた配分率に従って、共同執筆者が3人の場合には、 50パーセント の共有持分を有することになっている。したがって、本件の場合には、原告脚本の著作権侵害による 200万ドル(1ドル 120円 で換算すれば、 2億4000万円) になるので、その 50パーセントである 1億2000万円 が亡黒澤の法定相続人である原告らの求めうる損害賠償額となる。
※ 判決文より引用。
──てな主張がなされており、これに原告2人への損害賠償支払い それぞれ1000万円 と弁護士費用 1400万円 を上乗せして、ということらしい。勿論これはあくまでも原告側の主張である。
余談だが、『全集黒澤明』(全黒澤監督作品の脚本や監督自身による創作メモ・随筆などを収録)で上のような取り決めがなされてるとは知らなかったなぁ。もっと平等に分けてるのかと思ってた。
【争点(酷似しているとされるもの)】
私にとって最も気になっていたのが これ。新聞報道では詳しいことが判らなかったからだ。『武蔵』第1話のどんな描写を指して『七人の侍』と「酷似」しているとされたのか。──判決文から抜粋してみる。
1.村人が侍を雇って野武士と戦うというストーリー
2.別紙対比目録1記載の9箇所
(6及び11を除いたもの)の類似
3.西田敏行の演じた内山半兵衛と
志村喬の演じた島田勘兵衛、
寺田進の演じた追松と宮口精二の演じた久蔵の類似
4.戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現
大まかには、以上の4点だ。
このうち、2の「別紙対比目録」では 11項目が記載されているそう(新聞報道ではこの 「11項目」 が一人歩きした感が強い)だが、そのうち6と 11 (後述)については脚本にないものを演出段階で付け加えたため、脚本同士の比較の際に除外されている(『七人の侍』『武蔵』の脚本・映像それぞれの組合わせ──つまり4通りについて類似点が検討されて、このうち映像同士の比較の際に この2点を含め判断された)。
「別紙対比目録」自体の掲載は判決文にないのだが、文章を読んでそれらしい項目を抜き出してみる。必ずしも正確な再現ではないだろうが、そう大きく間違うこともないだろう(なお『武蔵』での描写のみを抜き書きした。『七人の侍』での描写については、後での引用判決文を参照のこと)。
1)関ヶ原の合戦後、戦場付近で遭遇した怪しい者を
武蔵が追いかけて取り押さえたところ、
その者の胸に手が触れて女であることに気づくという場面
2)お甲が戸の陰で棍棒を構え、
小屋の中に入ってくる又八に不意に打ちかかるという場面
(後日注:「黒澤久雄氏記者会見配布資料」によると、
「お甲が薪で侍に打かかりテストする」とある。
2005.1.6追記。)
3)朱美が道行く侍を物色する場面
4)お甲が戸の陰で棍棒を構え、
小屋の中に入ってくる又八に不意に打ちかかるという場面
(2との違いがはっきり書かれていない。
おそらく打ちかかる相手が異なるのではないか。
項目の順番からすると、追松が気配に気づいて
逆に攻撃をしかける場面か?)
(後日注:「黒澤久雄氏記者会見配布資料」によると、
「又八が脇差の鞘で薪を払う」とある。
2005.1.6追記。)
5)戸の陰に隠れた追松が真剣を抜いて構えていたところ、
半兵衛が足を止め、(冷静に)
「真剣で勝負をするというのは、何かわけがあるのかな」
と声をかける場面
6)侍の腕試し場面において、
半兵衛と並んで立っている朱美が腰につけている鈴を
ひきちぎって、追松に投げつけて、
追松が鈴を刀で払う隙をついて、
半兵衛が追松をねじふせるという場面
7)道に柵を作ることを提案する武蔵に対し、
半兵衛が塀を作れば、いつもと違うと敵に思われるので、
普段と変わらないと思わせておくのが一番だと答えて、
柵を作ることに反対する場面
8)辻風典馬を先頭に十数名の夜盗が騎馬で疾走してくる場面
9)馬と人が入り乱れた乱戦となり、
夜盗に退却を余儀なくさせる場面
10)雨の中の死闘が続き、武蔵らが足を滑らせながらも
戦い続け、最後には武蔵が辻風典馬と、
向かい合って斬り合い、武蔵が勝利するという場面
11)夜盗と斬り合ううちに刀が折れた武蔵が、
あらかじめ地面に突き立てておいた武器に
取り替えて戦いを続ける
ちなみに、黒澤久雄氏側はこれらの要素を個別に見たときには著作権侵害にあたらないことを承知している(まぁ弁護士が付いてるのだから当然ではある)。「アイデアと考えられ、原告らはそれらの使用に異議を唱えているわけではない」との言及もある。では何を争おうとしたのかと言えば、「上記1ないし4の類似点が組み合わされることによって、原告脚本及び原告映画の全体が想起されるようになり、被告脚本及び被告番組が、原告脚本及び原告映画の模倣作品と評価されるのである」という点である。
もちろん、要素が「組み合わされる」ことで起こるという著作権侵害を判断するには、各要素が本当に「類似」しているのかという検討が必要になる。東京地裁による本判決では、個別検討で「翻案に該当しない」と判断することで、それらを合わせても同様に「翻案に該当しない」ことを示すという論法が採られている。
【本判決における判断】
まず、このような「盗作」を著作権法下で判断する際の方向性が判決の中でも提示されているので、それを先に引用しておく。
「翻案」(著作権法27条)とは,既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして,著作権法は,思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(同法2条1項1号参照),既存の著作物に依拠して創作された著作物が,思想,感情若しくはアイデア等において既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には,翻案には当たらないと解するのが相当である(最高裁平成11年(受)第922号同13年6月28日第一小法廷判決・民集55巻4号837頁参照)。
したがって,被告脚本が原告脚本を翻案したものと評価されるためには,被告Cが,原告脚本に依拠して被告脚本を作成し,かつ,被告脚本から原告脚本の表現上の本質的な特徴を直接感得することができることが前提となるが,その際,具体的表現を離れた単なる思想,感情若しくはアイデア等において被告脚本が原告脚本と同一性を有するにすぎない場合には,翻案に該当しないというべきである。
他人の著作物をパクって自分の“著作物”を作った場合、著作権法 27条の 「翻案」の権利を侵害することになる。上の文章がややこしくて解りづらいかも知れないけど。
その一方で、よく言われているのは「著作権法は表現を保護するものであって、アイディアを保護するものではない」ということ。だから表現上で大部分(本質的な部分)において一致が見られなければ「翻案」にあたらない。「盗作」したとする著作物について、ネタ元と同じものだと確実に「感得」できるもの──そうした表現でなければならない訳だ。この手の「盗作」騒ぎでは、そういったボーダーライン上での難しい判断が必要とされ、なかなか答えが出ない(控訴・上告した結果ひっくり返ることもある)。
で、本判決ではどう判断されたのか。前掲の「酷似するとされるもの」に沿って検討内容を見ていく。ここからはしばらく脚本と脚本の比較である。
1.村人が侍を雇って野武士と戦うというストーリー
(判決文当該箇所では「ア」)
このように,原告脚本(引用者注:『七人の侍』)と被告脚本(引用者注:『武蔵』)は,野盗に狙われた弱者に侍が雇われて,これを撃退するという大筋において,一致が認められる。しかし,ストーリーの展開を検討すると,原告脚本においては,ストーリーの中心となる主人公が特定の人物に限られておらず,農民たち,勘兵衛,菊千代など様々な登場人物の視点がからみあってストーリーが展開されるとともに,人物の性格や場面について細かな設定がされていること,武芸にまつわる江戸期の伝承を取り込んでストーリーの細部が構築されている点に特徴がある。一方,被告脚本は,関ヶ原の合戦で活躍できなかった武蔵が,戦の後に知り合った母娘の敵として登場する野盗の頭領の辻風典馬を倒すという基本的なストーリーであり,その点は被告原作小説と一致している。
そして,被告脚本のうち,主要登場人物の顔見世的な人物紹介場面(この部分が,原告脚本と何ら関係がなく,著作権侵害・著作者人格権侵害の問題を生じないことは明らかである。)を除いた部分を原告脚本と対比すると,被告原作小説の物語を基本として主人公の武蔵を軸にその視点からストーリーが展開されている点,野盗の急襲によって守備側の中心である半兵衛と追松があえなく討ち死にしてしまい,武蔵がほとんど独力で野盗の頭領である辻風典馬を倒す点で,原告脚本が農民や侍たち等の複数の視点からストーリーを構築し,侍たちが農民と協力して野武士を撃退するというストーリー展開をしているのと大きく相違する。
さらに,そのテーマを検討すると,原告脚本においては,侍を雇った農民たちが落ち武者狩りによって得た武具を隠し持っていたこと,野武士を撃退した農民たちが田植えに励むのを見た勘兵衛が「勝ったのは,あの百姓たちだ。」とつぶやく場面などに表れているように,一見非力な農民のしたたかさ,力強さがうたい上げられている。一方,被告脚本は,青年武蔵が己の強さを自覚し,生き抜く誓いをたてるという1人の人間の成長の物語というべきものである。
上記によれば,原告脚本と被告脚本は,ストーリー展開やそのテーマにおいて,相違するということができる。したがって,原告脚本と被告脚本との間に,村人が侍を雇って野武士と戦うという点においてストーリー上の共通点が存在するにしても,そのことを理由として,被告脚本を原告脚本の翻案ということはできない。
※ 判決文より引用。
もう、ありゃ違うもんでしょ、と。
ストーリー展開が誰の視点で描かれているのか、「夜盗に狙われた弱者に侍が雇われて、これを撃退する」結果がどのようなものなのか、そうしたストーリーで何を観客に訴えかけているのか。これらの比較において「大きく相違する」という。
また、この後で「酷似」したとされる部分を細かく見ていく訳だが、それを全体として含めて比較した場合においても、判決文では次のように認定されている。
原告脚本(引用者注:『七人の侍』)の共同執筆者である橋本忍が集めた古い記録の中に,ある村が野武士の襲撃を防ぐために侍を雇って,その村だけ襲撃から助かったというわずかな記事があり,これを参考に物語の大筋を決めたこと,享保元年出版の天道流の達人日高繁高の記した「本朝武芸小伝」から,勘兵衛が僧侶に扮装した上で握り飯を投げて盗人の注意をそらし,人質の赤子を救い出すシーン(上泉伊勢守のエピソードから),戸陰から不意打ちをして侍の腕試しをするシーン(塚原卜伝のエピソードから),久蔵の決闘シーン(柳生十兵衛のエピソードから)を取り出して構成したほか,「本朝武芸小伝」を種本とする直木三十五の「日本剣豪列伝」も参考にして原告脚本が執筆されたことが認められる。(中略)被告原作小説(引用者注:『武蔵』の原作である吉川英治の『宮本武蔵』)は,新聞連載の後に昭和11年から昭和14年にかけて単行本として出版されたものであるところ,原告脚本及び原告映画が,被告原作小説における「土匪来」の章及び「征夷」の章(文庫版第6巻)のストーリー(武蔵が下総法典ヶ原で孤児伊織と巡り会い,荒野の開拓に従事していたところ,野武士の一団に襲われた近隣の村を助けに行き,野武士の一団を分断させて村人が集団でこれをせん滅する策を授け,野武士を撃退する話)や「四賢一燈」の章「一」ないし「五」(文庫版第7巻)の物語(武蔵の技量をはかろうと,物陰に潜んで刀に手をかけていた柳生但馬守の気配を察して,武蔵がこれを回避した話)の影響を受けているとの指摘があることが認められる。
※ 判決文より引用。
ここで指摘されているのは、『武蔵』が「酷似」した表現を用いたために『七人の侍』から盗用したのではないかとされる箇所が、実はオリジナルのアイディアではなかった事実である(黒澤明ファンにとってはお馴染みの話だったりする)。すなわち『七人の侍』から盗用せずとも、もし同じ文献にあたっていたのなら同様の表現が生まれ得るということ。
さらには『七人の侍』が、吉川英治の原作版『宮本武蔵』の影響下にあった(と指摘される)と認定されていることも興味深い。とすれば、原作を参考にしただけでも『七人の侍』との「酷似」はあり得る。尤も「指摘がある」との文言から判るとおり、『七人の侍』が『宮本武蔵』の影響を本当に受けていたかは定かでない(『宮本武蔵』からの影響を否定した上で、ファデーエフ『壊滅』を参考にしたとする証言も残されている)。しかしこれは本質的な問題ではない。
『武蔵』での、指摘された「酷似」が『七人の侍』からの「盗用」であると確かに言えるものではない。それが明らかになった。
2ー1)別紙対比目録より
関ヶ原の合戦後、戦場付近で遭遇した怪しい者を
武蔵が追いかけて取り押さえたところ、
その者の胸に手が触れて女であることに気づくという場面
(判決文当該箇所ではイ(ア))
ここからは「酷似」箇所それぞれを検討する。
原告脚本(引用者注:『七人の侍』)には,村の男たちは全員戦闘訓練に参加しているはずであるのに,これに参加していない男を見つけた勝四郎が,その者を追いかけて取り押さえたところ,胸に手が触れて女であることに気づくという場面がある。一方,被告脚本(引用者注:『武蔵』)には,関ヶ原の合戦後,戦場付近で遭遇した怪しい者を武蔵が追いかけて取り押さえたところ,その者の胸に手が触れて女であることに気づくという場面がある。
しかし,原告脚本と被告脚本では,当該場面における具体的な描写が異なっている上,原告脚本においては,雇われた侍による狼藉をおそれた父親により男装させられている志乃に勝四郎が出会い,その後,2人が人目を忍んで逢瀬を重ねることとなるきっかけとして当該場面が描かれており,ストーリー全体を通じても重要な場面であるのに対して,被告脚本においては,単に武蔵がお甲母娘に出会う伏線として描かれているにすぎず,ストーリー全体のなかでの当該場面の位置づけが大きく異なる。
上記のとおり,原告脚本と被告脚本とを対比すると,怪しい者を取り押さえたところ,胸に手が触れて女であることに気づくという点で共通するが,両者の間の共通点としてとらえられる上記の点はアイデアにとどまるものであり,また,男性の身なりに扮装していた女性の胸に手を触れることによって,女性であることに気づくという場面は,他の作品にも見られるものであり,このような設定自体をもって原告脚本独自のものということも困難である。
※ 判決文より引用
ここは読んだままの認定。特に難しいことは書いておらず、件の箇所については表現が異なり、それがアイディアに過ぎない上に、そのアイディアも『七人の侍』独自のものとは言えないということ。
「別紙対比目録」での2ー2)から2−5)については、判決文では「侍の腕試し場面」として一括りで検討されている。以下、項目の後に判決文からの引用。
2ー2)および4)別紙対比目録より
お甲が戸の陰で棍棒を構え、
小屋の中に入ってくる又八に不意に打ちかかるという場面
(判決文当該箇所ではイ(イ)a)
2ー3)
朱美が道行く侍を物色する場面
(判決文当該箇所ではイ(イ)b)
2ー5)
戸の陰に隠れた追松が真剣を抜いて構えていたところ、
半兵衛が足を止め、(冷静に)
「真剣で勝負をするというのは、何かわけがあるのかな」
と声をかける場面
(判決文当該箇所ではイ(イ)c)
a
原告脚本(引用者注:『七人の侍』)には,勝四郎が袋竹刀をとって入口に身を隠し,戸口を通りかかる侍に打ちかかってその技量を試すという場面がある。一方,被告脚本には,お甲が戸の陰で棍棒を構え,小屋の中に入ってくる又八に不意に打ちかかるという場面がある(別紙対比目録1記載の類似点2及び4)。
原告脚本と被告脚本(引用者注:『武蔵』)とを対比すると,侍の技量を確かめるために,戸口で不意に打ちかかるという点で共通する。
b
原告脚本には,人通りの多い往来で,村人が,強そうな侍を物色する場面がある。一方,被告脚本には,朱実が道行く侍を物色する場面がある(別紙対比目録1記載の類似点3)。
原告脚本と被告脚本とを対比すると,往来で強そうな侍を物色するという点で共通する。
c
原告脚本には,戸口を通りかかる侍に打ちかかろうとしている勝四郎に対し,浪人が,中に入ることなく,「誰方じゃ,冗談が過ぎますぞ。」(引用者注:ちなみに完成した映画では「ハハハハ‥‥ご冗談を」に変更されている)と声をかける場面がある。一方,被告脚本には,戸の陰に隠れた追松が真剣を抜いて構えていたところ,半兵衛が足を止め,(冷静に)「真剣で勝負をするというのは,何かわけがあるのかな。」と声をかける場面がある(別紙対比目録1記載の類似点5)。
原告脚本と被告脚本とを対比すると,腕前を試された侍が,あらかじめ攻撃の気配を察し,言葉でこれを制するという点で共通する。
前記aないしcの各点は,いずれも,侍の腕試しシーンに関するものであるところ,「目をつけた侍を戸口におびき寄せ,戸陰に隠れた者が不意に打ちかかってその者の技量を確かめようとしたところ,武芸に秀でた侍は隠れている者の気配をあらかじめ察し,言葉で攻撃を制した。」という点で共通する。
(中略)このように,戸陰から打ちかかることによって侍の技量を確かめようとしたところ,武芸に秀でた侍は攻撃の気配をあらかじめ察し,相手に攻撃の機会を与えないという場面設定自体は,江戸期の武芸者の逸話に少なからず見られるものであり,時代劇において達人の技量をはかる手段としてしばしば用いられる手法ということができる。そこで,上記のような場面設定において,試される侍が具体的にいかなる対応をしたのかという点を見るに,原告脚本においては,腕を試された1人目の侍(氏名不詳)は鉄扇で袋竹刀を払いのけ,2人目の侍(五郎兵衛)は気配を察して「誰方じゃ,冗談が過ぎますぞ」と言って攻撃を事前に制するのに対し,被告脚本においては,1人目の侍(武蔵)は何とか攻撃を通り抜け,2人目の侍(又八)は戸陰に人が隠れていることを知らされていたので攻撃を防御することができ,3人目の侍(追松)は気配に気づいて逆に攻撃をしかけ,4人目の侍(半兵衛)は気配に気づいてその真意を尋ねるという内容になっている。このように,原告脚本と被告脚本とでは,技量を試された侍の反応やその発する言葉は相違している。
(中略)被告脚本から原告脚本の表現上の本質的な特徴を感得することはできないというべきであり,被告脚本を原告脚本の翻案ということはできない。
※ 判決文より引用(少し整形してあります)。
それぞれの箇所で「共通」する点は認めるものの、その「相違」を事細かに挙げることによって「翻案」(無断で「翻案」するのが「盗作」)ではないと判断している。
ここでも「表現上の本質的な特徴を感得」できるかが鍵である。となると、『七人の侍』には全く勝ち目が無いように思える。
続いて、2ー7)から 2−10) を「夜盗との戦闘場面」として一括りに検討している。ここも項目をまとめて挙げた後に、判決文の引用を。
2ー7)別紙対比目録より
道に柵を作ることを提案する武蔵に対し、
半兵衛が塀を作れば、いつもと違うと敵に思われるので、
普段と変わらないと思わせておくのが一番だと答えて、
柵を作ることに反対する場面
(判決文当該箇所ではイ(ウ)a)
2−8)
辻風典馬を先頭に十数名の夜盗が騎馬で疾走してくる場面
(判決文当該箇所ではイ(ウ)b)
2−9)
馬と人が入り乱れた乱戦となり、
夜盗に退却を余儀なくさせる場面
(判決文当該箇所ではイ(ウ)c)
2−10)
雨の中の死闘が続き、武蔵らが足を滑らせながらも
戦い続け、最後には武蔵が辻風典馬と、
向かい合って斬り合い、武蔵が勝利するという場面
(判決文当該箇所ではイ(ウ)d)
a
原告脚本(引用者注:『七人の侍』)には,村の周囲に柵を設置する場面がある。一方,被告脚本(引用者注:『武蔵』)には,道に柵を作ることを提案する武蔵に対し,半兵衛が柵を作れば,いつもと違うと敵に思われるので,普段と変わらないと思わせておくのが一番だと答えて,柵を作ることに反対する場面がある(別紙対比目録1記載の類似点7)。
b
原告脚本には,騎馬武者を含めた野武士が獣めいた喚声を上げて村におし寄せて来る場面がある。一方,被告脚本には,辻風典馬を先頭に十数名の野盗が騎馬で疾走してくる場面がある(別紙対比目録1記載の類似点8)。 原告脚本と被告脚本とを対比すると,当該場面における具体的な描写は異なっているものの,野武士が騎馬で疾走して攻めてくるという点で共通する。
c
原告脚本には,馬柵の開閉によって野武士を分断する策を講じて野武士の一群を混乱させて乱戦に持ち込み,野武士に退却を余儀なくさせる場面がある。一方,被告脚本には,馬と人が入り乱れた乱戦となり,野盗に退却を余儀なくさせる場面がある(別紙対比目録1記載の類似点9)。
原告脚本と被告脚本とを対比すると,当該場面における具体的な描写は異なっているものの,乱戦の中で攻めてきた野武士が退却するという点では共通する。
d
原告脚本には,降りしきる雨の中を,13騎が一団となった真っ黒い固まりが村に攻め寄せ,乱戦となる場面がある。一方,被告脚本には,雨の中の死闘が続き,武蔵らが足を滑らせながらも戦い続け,最後には武蔵が辻風典馬と向かい合って斬り合い,武蔵が勝利するという場面がある(別紙対比目録1記載の類似点10)。 原告脚本と被告脚本とを対比すると,当該場面における具体的な描写は異なっているものの,最後の戦いが雨中の乱戦であるという点で共通する。
前記aないしdの各点は,いずれも,野武士との抗争場面に関するものであるところ,「雇われた侍によって一度は野武士が撃退され,野武士と侍との間の最後の決戦は雨の中で行われる。」という点で共通する。 しかしながら,前記共通点であるところの,攻撃側が騎馬で攻め込んでくること,攻撃を受けていた側に加勢が入ることによって,攻撃側が退却を余儀なくされることや雨中において戦いが行われること自体は,場面設定としてアイデアにとどまるものといわざるを得ない。
他方,ストーリー全体のなかでの当該場面の位置づけ及び当該場面の具体的な描写についていえば,原告脚本においては,雇われた侍と村人たちが一致協力して野武士の集団と死闘を繰り広げる様子を描写することで侍と村人との一体感,自衛に立ち上がった農民の力強さを見る者に印象づけるという観点から設定された場面であり,具体的な戦闘場面としては,村を取り囲む地形や各侍の個性・技量をも具体的に考慮して野武士に対する備えを準備し,野武士を分断して多数でせん滅する作戦を基本とした戦いが描かれている。これに対して,被告脚本においては,戦闘場面の描写を通じて,半兵衛の存在を強調してその討ち死にを見る者に印象づけるとともに,武蔵が「生き抜く」ことの大切さを知り,同時に自らの強さを自覚するという観点から設定された場面であり,具体的な戦闘場面としては,武蔵らは柵などの備えを全く設けず,野盗の一団を分断させるような策も講じないまま野盗と戦っており,野盗側としてもいったん撃退された後に改めて奇襲を行い,武芸者の半兵衛と追松を討ち取るなど一定の成果を上げている。 (中略)被告脚本から原告脚本の表現上の本質的な特徴を感得することはできないというべきであり,被告脚本を原告脚本の翻案ということはできない。
※ 判決文より引用(少し整形しています)。
「夜盗との戦闘場面」についても、「侍の腕試し場面」同様の検討・判断が為されている。共通点・相違点を洗い出し具体的に挙げた後に、「表現上の本質的な特徴を感得することはできない」という結論を導き出している。
3.西田敏行の演じた内山半兵衛と
志村喬の演じた島田勘兵衛、
寺田進の演じた追松と宮口精二の演じた久蔵の類似
(判決文当該箇所のウ)
ここでは、野武士・夜盗との戦いに関わる侍のうち2人についてその「類似」性が検討されている。内山半兵衛(『武蔵』)と島田勘兵衛(『七人の侍』)、追松(『武蔵』)と久蔵(『七人の侍』)との比較をそれぞれ項目を分けて述べる。
(ア) 島田勘兵衛(原告脚本)と内山半兵衛(被告脚本)
両者は,侍たちのリーダー格であること,技量が優れていながら,不遇な境遇を送ってきたという点において共通する。しかしながら,内山半兵衛(被告脚本)は,主人公の武蔵に「生き抜く」という大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」全体に通じる主題を伝えた後にあえなく討ち死にしており,仲間を失いつつも最後まで生き残る島田勘兵衛(原告脚本)とは相違している。なお,被告らは,内山半兵衛(被告脚本)は,大坂夏の陣で豊臣方に参加して討ち死にした後藤又兵衛を参考にしていると主張するところ,乙15及び16によれば,後藤又兵衛には,戦いに敗れ,一同が髪を剃って蟄居した際に,「負けるも勝つもいくさのならいである。」としてこれに従わなかったという逸話があることが認められる。そして,この逸話は,内山半兵衛が浪人となったいきさつを武蔵に語る場面において「いくさに負けたら,一同髪を切って出家しようという。いやだと言ったら,それなら腹を切れという。いくさは,そのときどきものだ。勝つときもあれば,負けるときもある。‥‥‥本気で戦わない者ほど,後になって形だけのことを言う。お前らに言われて,腹を切るなぞまっぴらごめんだ。そう言ってやめてきたのよ」と述べていること(被告脚本におけるカット44)の参考になったと考えられ,内山半兵衛(被告脚本)と後藤又兵衛との関連性を指摘することができる。
上記によれば,各脚本における人物設定の点において,内山半兵衛(被告脚本)が島田勘兵衛(原告脚本)に類似しているとは認められない。
(イ) 久蔵(原告脚本)と追松(被告脚本)
両者は,剣術に優れ,己の技を磨き上げることに生涯を捧げるかのような生き方をしている点において共通する。しかしながら,被告脚本において,追松は,戦いの中に身を投じている内に心がすさみきった者であると説明され,主人公武蔵に対する反面教師というべき役割を担っているのに対し,原告脚本における久蔵は,単身で敵陣に乗り込んで鉄砲を奪い取って若侍の勝四郎の憧憬の対象となったり,勝四郎と村娘・志乃の間の密会を見て見ぬふりをするなど,人間味のある性格の人物として描かれており,追松(被告脚本)と相違する。
上記によれば,各脚本における人物設定の点において,追松(被告脚本)が久蔵(原告脚本)に類似しているとは認められない。
※ 判決文より引用。
それぞれ違う人物じゃないの、と。
特に本判決では、内山半兵衛のモデルが後藤又兵衛であって島田勘兵衛ではないという NHK の主張を全面的に受け入れており、更に描かれ方の相違(ここを検討するのは、表現を問う裁判だから当然)を指摘して「類似しているとは認められない」と結論づけている。ただ私の私見なのだが、こういう「モデルは誰か」なんて話は言い張ったもの勝ちかも知れないねぇ。もちろん表現面で異なるからこそ通る“言い訳”なんだけど。
追松と久蔵についても、人物設定で大きな相違があり「類似しているとは認められない」と判断された。
4.戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現
原告脚本(引用者注:『七人の侍』)の最後の戦いの場面は,雨中での戦いとして,極めて著名な場面である。そして,被告脚本(引用者注:『武蔵』)においても,最後の戦いは雨中で行われるほか,冒頭の関ヶ原合戦後の場面において,霧ないし雨が使用されている。しかし,被告脚本において霧ないし雨の場面を設定したことから,直ちに原告脚本の表現上の本質的な特徴を感得させるものということはできない。ちなみに,関ヶ原合戦後の場面において霧がたちこめているのは,関ヶ原の合戦の史実とも符合し,原告映画と同時期に製作された稲垣浩監督「宮本武蔵」(乙32)においても関ヶ原の合戦における霧の場面がある。
※ 判決文より引用。
まぁ‥‥雨の中で戦ったら『七人の侍』のパクリか、戦場が霧に包まれたら『七人の侍』パクリか、もしそんなことになったら何も作れなくなってしまう。当然と言える判断(もっとも原告側だってそれは解っていて、 「11箇所の類似点は いずれも個別に見ればアイデアと考えられ、原告らはそれらの使用に異議を唱えているわけではない」と言及しているほど)。
さて、ここまで指摘箇所を個別に見てきたわけだが、これでようやく黒澤久雄氏の主張する内容の検討に入れるわけだ。すなわち「類似点が組み合わされることによって、原告脚本及び原告映画の全体が想起されるようになり、被告脚本及び被告番組が、原告脚本及び原告映画の模倣作品と評価される」のかどうかという。
しかし前述したとおり、件の「類似」箇所がそもそも異なる表現だという前提だから、結局はそれを合わせても「翻案」とは言えないというのが東京地裁の判断である。以下のようにはっきり示されている。
たしかに,ある著作物(原告著作物)におけるいくつかの点が他の著作物(被告著作物)においても共通して見受けられる場合,その各共通点それ自体はアイデアにとどまる場合であっても,これらのアイデアの組み合わせがストーリー展開の上で重要な役割を担っており,これらのアイデアの組み合わせが共通することにより,被告著作物を見る者が原告著作物の表現上の本質的な特徴を感得するようなときには,被告著作物が全体として原告著作物の表現上の本質的な特徴を感得させるものとして原告著作物の翻案と認められることもあり得るというべきである。
そこで本件についてみるに,たしかに原告脚本と被告脚本は,村人が侍を雇って野武士と戦うという点においてストーリーに共通点が見られ,また,別紙対比目録1(ただし,6及び11を除く。)記載の各場面において,アイデアにとどまるものではあるが,共通点が見られ,登場人物の設定の点でも,内山半兵衛(被告脚本)と島田勘兵衛(原告脚本)の間,追松(被告脚本)と久蔵(原告脚本)の間に一定の共通点が見られる。しかしながら,既に前記イ,ウにおいて検討したとおり,別紙対比目録1(ただし,6及び11を除く。)記載の各場面については,原告脚本と被告脚本との間でストーリー全体のなかでの位置づけが異なる上,具体的な描写も異なるものであり,また,人物設定の点もストーリーのなかでの当該人物の役割やその性格づけに着目すれば類似するものとは認められない。(中略)
上記によれば,原告らが原告脚本と被告脚本との類似点として挙げる各点を総合的に考慮して,原告脚本と被告脚本を全体的に比較しても,原告脚本の表現上の本質的な特徴を被告脚本から感得することはできないから,被告脚本をもって原告脚本の翻案ということはできない。
※ 判決文より引用。
場合によっては、黒澤氏側の主張のような“合わせ技侵害”もあり得ることは示されている。しかしながら あくまでも「表現上の本質的な特徴を感得させるもの」の場合であって、今回はそうでないと判断されたわけだ。
さて。今までは脚本同士の比較だったが、番組『武蔵』に対しても訴えているので次のように検討が為されている。
脚本同士の比較で出てきた「類似」点では「翻案」に当たらないのは、番組『武蔵』に対しても同様であるとしている。さらに番組で追加されたという「類似」点が2つあるのでそれについても検討された。2−6)および 2−11) である。
2ー6)別紙対比目録より
侍の腕試し場面において、
半兵衛と並んで立っている朱美が腰につけている鈴を
ひきちぎって、追松に投げつけて、
追松が鈴を刀で払う隙をついて、
半兵衛が追松をねじふせるという場面
原告脚本(引用者注:『七人の侍』)には,侍が子どもを人質にとって屋内に立てこもる盗人の注意をひくために握り飯を投げつけ,握り飯に気を取られた盗人の隙をついて斬りつける場面がある。一方,被告番組(引用者注:『武蔵』)には,侍の腕試し場面において,半兵衛と並んで立っている朱実が腰につけている鈴をひきちぎって,追松に投げつけ,追松が鈴を刀で払う隙をついて,半兵衛が追松をねじふせるという場面がある。
原告脚本と被告番組を対比すると,相手方の注意をそらすために物を投げるという点で共通する。しかし,このような場面設定自体は,「本朝武芸小伝」における伝承にもあらわれているもので,時代劇においてしばしば用いられるものである。そして,原告脚本では拘束者の目を人質から他にそらさせる方法として用いられているのに対し,被告番組では,腕試しで対峙し,攻撃を誘うかのような追松に対し,半兵衛が用いた策であって,これに対する追松の対応も重要な要素である。したがって,物を投げられた相手の対応と一体のものとして,被告番組における表現を考察すべきであるところ,鈴を投げられた追松の対応を含めて原告脚本と被告番組とでは具体的な描写が異なるものであって,この点を考慮すれば,注意をひきつけるために物を投げる点が共通しているからといって,被告番組から原告脚本の表現上の本質的な特徴が感得されるものではない。
※ 判決文より引用。
2−11)別紙対比目録より
夜盗と斬り合ううちに刀が折れた武蔵が、
あらかじめ地面に突き立てておいた武器に
取り替えて戦いを続ける
原告脚本(引用者注:『七人の侍』)には,村人が落ち武者狩りによって手に入れた刀を菊千代が鞘から抜いて自分の後に突き立て,野武士との戦いで刀が刃こぼれすると,地面に突き立てられた抜き身の刀を使って戦うという場面がある。一方,被告番組(引用者注:『武蔵』)には,野盗と斬り合ううちに刀が折れた武蔵が,あらかじめ地面に突き立てておいた槍や刀を抜いて戦うという場面がある。
原告脚本と被告番組とを対比すると,刀が使えなくなるとあらかじめ地面に突き立てておいた武器に取り替えて戦いを続けるという点が共通する。しかし,(中略),剣豪将軍として名高かった将軍足利義輝が松永久秀の軍勢に襲撃された際に,自らの周囲にあまたの名刀を突き立て,刀を取り替えつつ奮戦したが,衆寡敵せず,殺害されたという故事があり,多くの時代小説等において取り上げられていることが認められる。
上記のとおり,戦闘においてあらかじめ地面に突き立てておいた刀等を用いて戦うという設定自体は,時代小説等においてしばしば見られるものであり,加えて,原告脚本と被告番組では,上記の場面における具体的な戦闘状況の描写は異なるものであるから,上記の共通性をもって被告番組から原告脚本の表現上の本質的な特徴が感得されるものではない。
※ 判決文より引用。
番組『武蔵』で追加された「類似」点2つについても「翻案」であるとは認められず、番組『武蔵』が『七人の侍』脚本の著作権を侵害したとする訴えが退けられた。
また番組『武蔵』・脚本『武蔵』の両方について、今度は映画『七人の侍』から「翻案」されたものかとの検討も行われているが、これまでの比較と同様な上「特徴に付け加えるべき点はない」とされた。
特に番組『武蔵』と映画『七人の侍』との比較においては、次のように検討結果が強調されている。
原告映画と被告番組はともに映画の著作物であることから,これを対比する場合,上記の検討に加えて,映像として表現されている各場面のカメラワーク,カット割り,音声等の画像特有の点をも対比するのが相当であるところ,原告映画は,各画面において上記の各点においてその技法に優れ,高度の芸術性を有するものであるが,本件において原告らの主張する各類似点について被告番組と対比を行う上においては,特に特定の場面の画像についてその映像上の技法・特徴を付加して対比を行うまでの必要は見受けられない(原告らは,「戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現」について,特に原告映画の特徴として主張するが,この点の類似をいう点についても,前記1(2)エに記載したのと同様の理由により,被告番組が原告映画の表現上の本質的な特徴を感得させるということはできない。)。
※ 判決文より引用。
もし「類似」していた内容だったらカメラワーク・カット割り・音声等を考慮するのだろうけど、今回のはそれに及ばないと。逆に言えば、映像同士の「翻案」認定はハードルが高いということか。
ともあれ、黒澤久雄氏らの訴えは全面的に棄却されることとなる。
【結論および主文】
以上によれば,被告脚本及び被告番組は,原告脚本についての著作権(翻案権)並びに原告脚本及び原告映画についての亡黒澤の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)を侵害するものではない。
したがって,その余の点について判断するまでもなく,原告らの請求は,いずれも理由がないからこれを棄却することとし,主文のとおり判決する。
※ 判決文より引用。
──で、主文がこちら(判決文では冒頭に示されている)。
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
※ 判決文より引用。
判決文自体は長くて(私自身もこう整理しなけりゃ)読みづらいものなのだが、その内容については妥当だと思われますな。
ところで判決文を読んでいて、興味深く思った点があった。というのは、裁判官が『七人の侍』をやたら持ち上げているからだ。
原告脚本においては,原告らの挙げる上記の各場面のほかに多くのエピソードが描かれており,島田勘兵衛及び久蔵のほかに多くの個性的な人物が登場するものであり,そこでは,7人の侍について各人の個性が見事なまでに描き切られており,作品全体を通じて,侍たちの義侠心と村人に対する暖かい視線,野武士との闘いを通じて形成される侍たち相互そして侍たちと村人との間の心の触れあいと連帯感,一見非力な農民のしたたかさ・力強さ等のテーマが,人間に対する深い洞察力に裏打ちされた豊かな表現力をもって,見る者に強烈に訴えかけられているものである。これに対して,被告脚本においては,主人公武蔵が歴戦の武芸者から薫陶を受けるとともに自己の強さを自覚する契機として野盗との戦闘場面が設定されているにすぎない。原告脚本と被告脚本の間に上記のようなアイデア・設定の共通点が存在するとはいっても,原告映画をして映画史に残る金字塔たらしめた,上記のような原告脚本の高邁な人間的テーマや豊かな表現による高い芸術的要素については,被告脚本からはうかがえない。
※ 判決文より引用。
いや、判決はどうしても請求棄却で決まっているから、気を遣って『七人の侍』を立てているのかな‥‥なんて思ったりもする。あるいは これが好きな裁判官がいたのか。いずれにせよ、『武蔵』の「芸術的要素」にまで踏み込んで言及しているのは異様に映る。
私は“ヘタレ認定”として大笑いしてたんだよ。でも、パクっても出来が悪かったら「表現が違う」と認定されるのかなぁ‥‥なんて不謹慎なことも思ったり(黒澤氏側も「愚作であれば盗作にならないという奇妙な論理」と記者会見の場で発言、まぁ気持ちは解らないでもない。しかしあくまでも問題は「表現」であって、その出来・不出来ではない。『武蔵』は表現が違い、それがたまたま「高い芸術的要素」が無かったというに過ぎない。多方面の「芸術的要素」を入れることも可能だった訳でね。カッコ内追記:2005.1.6)。良かったッスね >ヘタレ『武蔵』。
あと、黒澤久雄氏側が『武蔵』に対して行なったツッコミが面白い。
被告らは,たまたま原告脚本及び原告映画を借用したのではなく,確信犯的に(ストーリーの流れからは無理があることを承知で),原告脚本及び原告映画を被告番組の中に取り込んでいったとしか思えない。
すなわち,
(ア) 被告番組のストーリーは,原告脚本及び原告映画との関係をおくとしても,不自然なものである。被告番組では,農民が侍を雇って収穫物を狙う野武士から村を守るという原告脚本及び原告映画の設定が改変され,侍を雇う一家は,村から孤立し戦場の死骸から刀や兜を盗んで生計を立てている(なお,被告原作小説では,お甲は,野武士の頭であった亭主が辻風典馬に殺されたという設定であった。)。被告番組には,原告脚本及び原告映画にある強きをくじき弱きを助けるという義侠心が全く見受けられない。そもそも何故侍たちが集まってくるのかも分からない。さらに,原告脚本及び原告映画では,農民は1日がかりで街まで旅をして侍を集めようとするのに対し,被告番組では,村から至近距離の道を侍が何人も通り過ぎるという不自然な設定となっている。
(イ) 野武士が襲ってくる時期について,原告脚本及び原告映画の冒頭部分では,野武士たちが舞台となる村を見下ろしながら,麦の収穫時期に襲うことを話している場面があり,このことが侍を雇って村を守るという話につながっていく。これに対し,被告番組では,狙われるのは刀や兜を盗んでくる,いわば盗人であり,野武士たちが毎年(又は年に何度も)襲ってくるということが述べられているが,どのような兆候をとらえて襲ってくるのかについては説明がない。被告番組のストーリーでは,野武士がいつやってくるかは予想できず,あらかじめ襲撃に備えて侍を雇うこともできないはずである(なお,被告原作小説では,盗品の売却先から情報を得て,辻風典馬の一味が,朱実に予告した上で,やって来ることになっている。)。
上記のとおり,被告原作小説からは,集められた侍が野武士と戦うという被告脚本及び被告番組の展開にはなりようがなく,被告脚本はそれ自体が破綻しているとしか思えない。
被告らは,別紙対比目録1及び2記載の諸点から明らかなように,侍を雇って野武士と対決しようとするプロット以外にも,原告脚本及び原告映画から,象徴的な多くのエピソードを借用している。
(ウ) 配役にしても,被告番組において侍の頭になる冷静沈着で腕の立つ中年の浪人内山半兵衛(演者・西田敏行)は原告映画の島田勘兵衛(同・志村喬)を彷彿させる。また,被告番組における剣の道一筋の追松(同・寺田進)は,原告映画の久蔵(同・宮口精二)に容姿までも似ている。宮本武蔵はさしずめ菊千代(同・三船敏郎)と勝四郎(同・木村功)を合わせたというところと思われる。ちなみに,米国映画「荒野の7人」のホルスト・ブッフホルツはそのような役柄である。
(エ) 被告脚本及び被告番組には,武蔵が家の前に柵を作ることを提案すると,半兵衛が「いつもと違うと思われる。」と言って反対する場面がある。これは,原告脚本及び原告映画が,村を柵で囲って要塞化したことを念頭において,関連づけを図ったものである。そもそも被告番組においては,野武士に狙われていた家は高い塀を備えているので,その上更に柵を作ることは不要であったはずである。
(オ) 被告脚本及び被告番組には,野武士の集団が刀を振り回しながら喚声をあげて押し寄せる場面がある。原告脚本及び原告映画においては,野武士たちが威嚇しながら突進してくるのは,それまでに村の他の場所で撃退されているからで,自然な行動である。一方,被告脚本及び被告番組においては,毎年何度も襲っている家に対し,野武士たちが集団で抜き身の刀を振り回しながら威嚇するように押し寄せてくるのは奇異であるし,そもそも,野武士たちは,その時点では,家には男1人女2人しかいないと思っていたはずである。
(カ) 内山半兵衛が朱実の腰の鈴をひきちぎってそれを投げ,追松が刀で払う隙をついて取り押さえるという設定については,鈴は鳴るものなので鈴をちぎって投げれば当然半兵衛の動作が追松に分かってしまい,追松は飛んでくる鈴を斬る(意味のない動作である。)のではなく,鈴を投げて態勢を崩した半兵衛を斬るとすべきである。この場面は,既に原告脚本及び原告映画に酷似した被告脚本に,さらに原告映画に酷似した場面を追加したものというべきである。
このように考えると,被告らは,たまたま原告脚本及び原告映画を借用したのではなく,確信犯的に(ストーリーの流れからは無理があることを承知で),原告脚本及び原告映画を被告番組の中に取り込んでいったとしか思えない。大河ドラマ第1話として必要な主要な登場人物の紹介を除くとわずか30分弱しか残らない放送時間の中で,人を感動させる新しいドラマを作ることが不可能であることを悟った被告らは,多くの視聴者が既に見て,かつ,感動した傑作をその感動をも含めて取り込んでしまおうと思ったものと推察される。そして,その結果できあがった作品は,原告脚本及び原告映画の高邁な精神も美学もなく,かの名作のイメージを傷つけることこの上ないものである。
※ 判決文より引用。
いやぁ、お説ごもっとも。配役の件はちと強引だと思うけど。
NHK もここまでダメ出しされるとは思ってなかっただろうなぁ。いっそのこと名誉毀損で訴えたらどうだい? あれは本当のことを言われた場合でも成立するでしょ(笑)。
黒澤氏側がこれをやったのは、『七人の侍』との「酷似」点が『武蔵』の中では必要とは思えない表現だったということを示すためだ。しかも原作から改変された部分ばかり、あれだけの数の「酷似」点が偶然入り込むことも考えられない。つまり『七人の侍』を意識しない限り、ああはならないだろうと。
対して NHK は改変の必要性を示すために、原作版『宮本武蔵』にツッコミを入れるという珍妙な図式になってしまっている。これは原文の「被告らの主張」をお読み下さい。なんだか泥縄な論理展開な感じもするが、いや結構正論で対抗しておりますぞ。
最後に。私はこの件をどう思ってるか。いや判決については妥当だとは思うけど。
でもね、私は NHK はクロだと思うのですよ。その心証としてはね。気持ちとしては黒澤氏側に非常に近い。各要素が揃ってしまう必然性の無さ、そしてその「有機的結合」の結果はやはり『七人の侍』を想起させている訳で(だからこそ抗議が殺到したんでしょ?)。
もちろん著作権と創作の関係を考えるなら、これは著作権侵害として認定されてはならない。作ってる側としては納得いかないだろうけどね(よく解る)。しかし ここまで相違点があるのに著作権侵害と認定されてしまっては、今後の創作活動全般が阻害されてしまうのも事実なのだ。例えば、『七人の侍』と同じシチュエーションの中、別の人物が奮闘する(たとえば百姓の1人とか)ヴァージョンを書こうとしたらどうか。集まった筈の「侍」たちがヘタレばっかりだったら? 実はピクサーの『バグズ=ライフ』がこういう話なんだけど、このような独自の表現として成立している著作物にまで“網”を掛けかねないのだ、今回の争点は。
弱者が強者を雇うという関係性、あるいは人はどうして・どうやって戦うのかという普遍的なテーマを持っているからこそ、『七人の侍』は他のバリエーションを生み出す可能性を持っている。『七人の侍』では描かれていない部分を、『七人の侍』の「著作権」のために表出させない(それを阻害する)ことが許されるものか。
モロパクリ(本質的な模倣・翻案)の時以外は著作権侵害としない、その線で仕方ないじゃないか。
残念ながら、黒澤久雄氏側は控訴してしまった。「これが判例になれば、著作権が成り立たない」(黒澤久雄氏の言)とのことだが、この発言をあえてパクった上で こう言わせてもらおう。
──今回のが判例にならなければ著作物が成り立たない、と。
【追記:2005.1.6】
原告の訴訟代理人として裁判に臨んだ乗杉純 弁護士(『乗杉綜合法律事務所』サイト掲載の履歴書を読むと、黒澤作品『乱』の国際共同製作契約に関わるなど映画絡みの仕事が多いようである)が 「平成16年12月28日 黒澤久雄氏記者会見配付資料」を掲載しているのを発見した。これには「対照目録」も添付されていた。
http://www.iijnet.or.jp/NORI/JUN/musashi161224.html
「『武蔵』事件判決について」(Welcome to Jun's World)
なお本来であれば、この私の記事中の「対照目録」箇所を これに基づいて訂正すべきだろうと思うのだが、ちと手間なので敢えて掲載時のままにしておく(一部注釈を追記しておいた)。
投稿:by 暇人#9 05:19 午後 [映画(ビデオ含む)] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.12.26
「黒沢監督長男らの訴え棄却 『七人の侍』酷似訴訟」(朝日新聞)
去年の NHK 大河ドラマ『武蔵』の第1話が『七人の侍』のパクリだとして訴訟沙汰になっていた件。ただでさえ空前の低視聴率で話題になっていた上に、パクリ騒動で嘲笑の対象となっていた『武蔵』だが‥‥
http://www.asahi.com/national/update/1224/029.html
「黒沢監督長男らの訴え棄却 『七人の侍』酷似訴訟
- asahi.com : 社会」
▲ 引用はこちらから。
http://blog.melma.com/00089025/20041225103158
「melma!blog [The Trembling of a Leaf]」
▲ 見出し「「七人の侍」vs「武蔵」一審判決」。
ネタ元。
昨年放送されたNHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の第1回放送が、故・黒沢明監督の映画「七人の侍」に酷似しているとして、同監督の長男で映画プロデューサーの黒沢久雄氏らが、NHKや脚本家鎌田敏夫氏を相手に1億5400万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決が24日、東京地裁であった。三村量一裁判長は「両作品を比較した結果、著作権などの侵害は認められない」として請求を棄却した。
裁判では勝てたようだな。黒澤久雄氏の損害賠償請求が棄却された。
ああ、やっぱり、てな感じ。朝日新聞の記事だと判決根拠が今ひとつ判らないから、日刊スポーツの記事で補足してみよう。
http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/
p-et-tp0-041225-0007.html
「『武蔵は盗作』黒沢氏主張を棄却
- nikkansports.com > 芸能ニュース」
三村量一裁判長は判決理由で「ストーリーや複数の場面、登場人物などに一定の共通点がある」と指摘したが「具体的な描写が異なり、表現上の本質的な特徴が一致しない」と著作権侵害を否定した。
ちょっと似てたくらいで盗作呼ばわりは出来んでしょ、と。まして「具体的な描写が異な」ると認定されたのでは、「アイディア」ではなく「表現」を保護する著作権法で勝訴することなど出来ない。黒澤久雄氏、お手上げ状態。
ちなみに提訴の際には、 「11ヶ所」 の「酷似」点があると指摘されていた。当時の記事がネットに残ってないので、その「類似」点を詳しくは出せないが(判決文を探せば載ってるのかな?)、実は当時ネタにしてた私の記事から引用しておく(複数の新聞記事をもとに簡単にまとめたもの)。
http://ch.kitaguni.tv/u/1829/
%a5%cb%a5%e5%a1%bc%a5%b9
%a4%ab%a4%e9%a1%c5%a1%c5/
0000043985.html
「『事件:『武蔵』訴訟 NHK『著作権侵害ない』』 毎日新聞
: 試される。 -北国tv」
●村人が侍を雇って野武士と対決するストーリー
●野武士たちに刀や槍できりかかる
●豪雨の中で戦う
●主人公の武蔵が地面に突き立てた刀を抜く
些末な「酷似」点の中、こいつは本質に関わるかもと思えるのが「村人が侍を雇って」云々の部分。『七人の侍』は、この部分に内包されたテーマに沿って表現を積み重ねた結果、あのような映画史上に残る名作となった。
しかし以前の記事にも書いておいたのだが、このアイディア自体が文献から得たものである(黒澤明ファンには有名な話。最初は侍の1日を描く予定で文献を集めていたが頓挫、次に剣豪のオムニバスものをやろうとして中止、そこで見つけた「百姓が侍を雇う」エピソードを元に『七人の侍』が生まれることになる)。そしてそのアイディアをパクっただけでは同様のものは出来やしない。表現が違えばモノ自体が異なる。
例えば、ピクサーのCGアニメ『バグズ=ライフ』。あれは、『七人の侍』がモチーフになっている(たぶん)。『アリとキリギリス』と『七人の侍』を融合したような話なのだ。これが『七人の侍』と異なるのは、雇ったのが「侍」ではなくて「サーカス団」だったという所(そこが話のミソでもある)。当然、この作品は『七人の侍』と全くの別物であり、表現の類似性が指摘されたことも「盗作」などと呼ばれたことも無い。
『武蔵』についても同様の判断が下されたということなのだろう(異なると認定されたのは他の箇所だったろうが‥‥)。
私が「些末」とした部分も、実は『七人の侍』で適宜使われたからこそ光っている「表現」であるということは言える。特に「豪雨の中で戦う」「地面に突き立てた刀を抜く」というのは『七人の侍』を特徴づける描写である(豪雨は最終決戦の激しさを演出していたし、刀の描写はリアリティを高めるのに貢献していた)。しかしそうした表現を『七人の侍』でしか使えなくするのが適切か否か。適切な訳がない。豪雨の中で戦う作品はもう作れないのか? 刀では複数の人間を斬れないとする描写はもう使えないのか? まさかね。
尤も、法的な「著作権侵害」認定と視聴者の心証は全く別である。『七人の侍』の独創性とその影響力は万人の知るところであるし、『武蔵』が各描写をパクったのは周知の事実(当時から抗議が殺到していたというし、当初 NHK が謝罪までしたという)。その上、判決でこんな言われ方をしている。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/
20041224AT1G2402324122004.html
「NIKKEI NET:社会 ニュース」
▲ 見出し「大河ドラマ『武蔵』、
『七人の侍』著作権侵害せず・東京地裁」。
三村裁判長は「『七人の侍』を映画史に残る金字塔たらしめた脚本の高まいな人間的テーマや高い芸術的要素は、『武蔵』の脚本からはうかがえない」と指摘。
──ぶわッはッはッはッ。『武蔵』のヘタレ具合が東京地裁に認定されたぞ!
もうこれで充分じゃないか。これ以上やったら、弱い者いじめだよ。
【追記:2004.12.29】
その後、黒澤久雄氏側が控訴した。
http://www.asahi.com/national/update/1228/026.html
「NHK「武蔵」盗作問題、黒沢氏側が控訴 - asahi.com : 社会」
原告側は28日、著作権などの侵害を認めなかった東京地裁判決を不服として控訴した。
(中略)同日会見した久雄氏は「個々のシーンが完全に同じでなくても、各シーンが有機的に結合すれば酷似することになる。これが判例になれば、著作権が成り立たない」と話した。
黒澤久雄氏側の「各シーンが有機的に結合すれば」云々が仮に認められてしまえば、権利者はどうとでも言えるようになる。それこそ部分的な類似しかなくとも、難癖つけて著作権侵害だと騒ぎ立てれば“利益”にありつける。
しかし著作権法はそのような“利益”を守るものではない。アイディアを保護している訳ではないのだ。
また、問題は黒澤久雄氏自身が『七人の侍』を作った訳ではないという点にもある。彼は創作が過去の作品からの“借り物”で形作られていることを理解していないのではないか(そしてそれは著作権を侵害するものではない)。もし彼の主張通りに「判例になれば」後年の創作活動全般に対して暗い影を落とすことになる。
黒澤久雄氏は、裁判に勝てさえすれば溜飲が下がるのかも知れない。しかし、「著作権」の名の下に続けるこの訴訟が、後年 日本の文化活動にどのような影響を与えてしまうのかを考えてもらいたい。
再度言う。『七人の侍』だって、先人の作品(映画に限らない)がなければ生まれなかった。
【さらに追記:2004.12.29】
最高裁のサイトで、判決文が掲載された。
後日これを読んでみるつもり。それで私の印象が変われば、それはそれで見ものかと。
http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/
c617a99bb925a29449256795007fb7d1/
3640e47fbe3876d549256f77000c55b7?OpenDocument
▲ 見出し「知的財産権判決速報」。
「H16.12.24 東京地裁 平成15(ワ)25535
著作権 民事訴訟事件」。
投稿:by 暇人#9 12:10 午後 [映画(ビデオ含む)] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.10.27
【狂喜】うわッ、ホントに来ちまったよ、『ナイトライダー シーズン1 コンプリート DVD BOX』【乱舞】
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うわぁ、来るか来るかと思ってたら、ホントに来てくれた!
すごいぞこいつは!
ああああぁぁぁぁ(以下、狂喜乱舞中にて省略)‥‥。
『ナイトライダー』と言えば、ある一定の年代の人には説明不要だと思うのだが、最近の若い人には判らないかも知れないねぇ。 1980年代(米本国では中盤、日本では後半)に放送された米国のテレビシリーズで、喋るは勝手に走るは、その他もろもろの機能を搭載した「ボンドカー」(この例え自体が非情にも時代を感じさせる)ばりの「ドリームカー」ナイト 2000 が活躍するアクションシリーズなのである。あとはオマケ(笑)。
話は割と荒い作りだったのだが、会話の妙があって飽きさせなかった。ドライバー(マイケル=ナイトっていう、こっちが主人公ね)との掛け合いが面白いんだな。ジョークあり、嫌味あり、時にはしんみりさせて。しかし誰が言おうと、最も格好良いのはナイト 2000だ! トランザムを少しいじった外見で、あのレーダーのチカチカが左右へ行ったり来たりして、‥‥(以下略)。
『ナイトライダー』は米国で4年放送された。日本では、まずパイロット版(本放送前の導入編みたいな特別版)が放送され、次にスペシャル版5本(この中には、必ずしもスペシャルとして制作されたものだけでなく、本放送のエピソード2本を繋げたものもある)が『日曜洋画劇場』で放送された。そして本放送へ突入したという経緯がある。
今回 DVD に収録予定なのは本国の第1シーズン全話ということなのだが、これ、実は日本での本放送の導入シーズンとは異なる。何故かというと、日本では第2シーズンから放送されて、その次に第1シーズン、第3シーズン‥‥という感じだったのだ(ある登場人物が第2シーズンだけ入れ替わるという事情のため取られた措置だそう)。だから本放送の第1話と違うとか思わないように。こちらが本物ですから。
第1シーズンが他のシーズンと明らかに違うのは、ナイト 2000 が喋るときにチカチカする表示部。この頃はただ赤い四角がチカチカするだけなのだな。第2シーズンからは縦3つに分かれた お馴染みのインジケーターになる。たぶん第1シーズンに出てくる”兄貴”のカールを流用したものだと思うのだけど(このナイト 2000 の兄弟対決は第1シーズンの見ものだ!)。
少し前に『ベスト=オブ=ナイトライダー』という2枚組の DVD が発売されて話題になったのだけど、この時は日本語吹替が収録されてなかった。やっぱ『ナイトライダー』と言えば吹替でしょ、とこだわる人が多いのだろう(もちろん私もそんな一人)、今回は吹替版収録との情報が流れている。ただ、『ベスト〜』の方も最初は吹替版収録と発表されていただけに、ボックスセットでもどう転ぶか判らず不安‥‥。
やっぱ KITT は「はい、マイケル」と日本語で言わなければならないんだぁ! そうでなければいかん!
ついでだから、『ベスト』の方も紹介しておこう。こちらも、「ベスト」の名に恥じぬ名エピソード揃い(買ってないけどね)。
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──日本語吹替入りで再発売されたら買っても良いな。
いやぁ、『ナイトライダー』のこととなるとスイッチが入っちまうな >俺(ビートルズのことでもスイッチ入ったばかりじゃん‥‥)。放送当時(私は北海道にいたから、 HTB で放送され、しかも2カ国語の電波が届かない地域で日本語モノラル音声だけだった‥‥)に録画したビデオテープ、今でも持ってるものなぁ。なかなか消せなくて。あのころはビデオテープがまだ高かったし、消しては録り、消しては録りしてたから数話分しか残ってない‥‥。
同じ頃『エアウルフ』なるヘリコプターものもやっていて、『ナイトライダー』と人気を二分していた(いや、両方好きって人の方が多かったか)。こちらは市販されたビデオ(6本ぐらいあったと思う)を持ってたりするが‥‥『ナイトライダー』は2本しかソフト化されてなかったんだよなぁ、当時は。
良い世の中になったものだよ(『エアウルフ』の DVD 化も求む!)。
追記。私は劇場映画の『ブルーサンダー』も好きだぞ。
男はメカが好きなのだ!
なお、『ナイトライダー』『エアウルフ』のエピソード紹介はこちらで。ここの情報量は凄いぞ!
http://riderx.hp.infoseek.co.jp/index.htm
「ガースのお部屋」
──長年愛用させてもらってるページだが、ようやく紹介する機会ができたよ。
投稿:by 暇人#9 04:46 午後 [映画(ビデオ含む)] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.07.15
今月頭の映画鑑賞 ──『パッション』、遅ればせながら見た

──ネタにするのが今頃になって恐縮したりして。
7月になって、久しぶりに街へ出かけた。毎月1日の「映画サービスデー」だ。考えてみれば、映画を劇場で見ること自体、久しぶりの話である。
映画の話をするたびに繰り返すのだけど、この料金が高い。 1800円で1回きりだ(もっとも2回連続で見る元気は今の私に無い)。最近だったら これくらい払えば DVD が1枚買えるぞ!
映画館へ行く人が減っているのは周知の通り。そもそも今の日本人には観劇に行く人が少ないようではあるのだが‥‥確か「文化に関する世論調査」とやらでそんな話が出ていたように思う。ただ映画に限って言えば、「映画サービスデー」の時にはそれなりに人が集まっていないだろうか。いっそのこと料金を 1000円に下げてしまえば、観客動員数を今以上に増やせるだろうになぁ。
ともあれ 数々の候補の中から、今回は『パッション』を見に行くことにしたのだ。遅ればせながら、ではある。
『パッション』。原題だと 『The Passion Of The Christ』、すなわち「キリストの受難」である。その「受難」を克明に見せることで、キリスト教への共感を呼ぼうという意図らしい。
で、どうだったか。──これが本当に痛そう!
執拗に傷つけられるイエスの身体。皮膚は裂け、肉が割れる‥‥あそこまで血まみれになったイエスは今まで描かれたことが無かったのでは。
同じメル=ギブソン監督作の『ブレイブハート』でもそれなりに痛そうなシーンがあったのだが(というか あの作品でも主人公は拷問で死を迎えている)、今回は痛そうなのが売りだっただけに、それ以上の描写の連続だった。
もっとも、残酷なシーンを見せさえすれば説得力が出るかというと そうではない。そのあたり、メル=ギブソンのバランス感覚が光っていた。
実のところ、いちばん酷い部分は直接描写していない。フレームの外に出したり、それを見ている人物の表情で表現したり。想像に訴えかけ、共感させる方法を採っている。これがハリウッド流と言えば身も蓋もないが、そういった制約の中でギリギリの衝撃を狙っていることが描写から伝わってくる。
あっという間の2時間だった。
「キリストの受難」という主題は、それだけでも充分に注目を惹くものであろう。そしてそれが今までに無かったようなリアリズムをもって描かれる。画としての求心力が強く、逆に言えばそれだけで2時間引っ張られたようなものだった。
それはそれで凄いことだとは思う。しかし同時に疑問も感じてしまった。これは映画と呼んでも良いものなのだろうか?
奇しくも私は上で「画としての求心力が強く」と書いた。──これなのだ。映画というよりは、絵画・映像の部類。そう解釈した方が私には納得いくのである。
映画には、興業形態から来る制限がある。短期間での連続上映はできず、何部作かを作っても それぞれが1本の映画として独立していなければならない(これらを一挙に上映するのは、特別な企画でも無いかぎり不可能)。
また、単独作でも長時間上映に限界がある(せいぜい長くて3時間半ほど)。かと言って非論理を貫けるほど短くもできない(短編ならばイメージだけの、話のない作品も可能であろうが‥‥)。
娯楽でもあり芸術でもある映画ならではの、要求される点というものがある訳だ。
では、『パッション』はどうだったのか。──自己完結性に欠けていた。
例えば人物描写が極端に少ない。聖書を知っていることが前提になっているためか、それぞれのエピソードが唐突に登場する。私は なまじ知っていたがために、不覚にも感情移入してしまった部分があるのだが、それにしても不親切な作りであることは確かだ。
理解させるのに必要な描写を頭に1時間ほど足していたら‥‥とも思うのだが、それをやって更に面白くできるかは判らない。あの作品には、「受難」に描写を絞ったからこその良さもあるだろうから(イエスやその周辺の人物描写は、それこそ多くの映画で既に描かれており、ここでの描写にも斬新さがない限り『パッション』の衝撃を薄める結果になってしまいかねない)。こうした思い切った切り方は、映画的というより絵画的だと私は敢えて言いたい。
ひとりの「魅力的」な男が嬲り殺される様を黙って見ているしかない話。『パッション』をひとことで表すなら、こうなるだろうか。
ここで「魅力的」と括弧でくくらざるを得ないのは、イエスの人物描写すらも省略されていたからである。おそらくは制作者のイエス像は反映されているのだろう、しかし観客は観客の方で、過去に見聞きしたイエスの肖像と重ねて見てしまう。それゆえに、イエスの痛みへ共感してしまうという少し狡い仕組みである。
イエスの描写で唯一“変化球”だったのは、大工としての描写が ひとつ用意されたこと。これは彼に人間性を与える描写として面白かった。
物語の背景となる人物描写は思い切り省略されていたが、その反面「受難」に関わる人物の描写は克明に為されていた。
あくまでイエス抹殺に突き進むユダヤ人(ただしその動きを非難するユダヤ聖職者が描かれているのも重要な点と言えるだろう‥‥すなわち主流派が暴走してイエスを死に追いやるという但し書きをつけている訳だ)、そのユダヤ人の様に言葉を失うローマ総督、日常的暴力に狂ったかのように残虐なローマ人刑吏、都市の中で石を投げつけるユダヤ人が多かったのが、都市から離れるにつれ嘆き悲しむユダヤ人と入れ替わっていく様(たぶん都市周辺の主流派と都市から離れたイエス“シンパ”との描き分けなのだろう)‥‥。こういった「受難」にまつわるシーンでは伝わって来るものが多いということは、ここに関する限り、私の「人物描写が極端に少ない」という評は当たらない。
本来的な映画の表現としては、この「受難」シーンをより効果的に見せるために人物描写を重ねていく筈である。しかし前述したように、この作品はその方法を採らなかった。それでいて過剰なほどの「受難」シーンを描き込む姿勢を見るにつけ、私は映画的というより絵画的なアプローチに思えてくるのである。
何故イエスは十字架にかけられねばならなかったのか。それをどう理解すればいいのか、考え続けてきたのがキリスト教徒なのかも知れない。だからキリスト教徒にしてみれば、あの映画の「明確」なメッセージが読み取れているのかも。
しかしキリスト教を信仰する訳でない私にとっては、あそこで描かれているのは理不尽な暴力以外の何物でもない。なぜ十字架にかけられたのかという問いの答えは、不信心者の私には一生わからないものかも知れない。
ところで、この作品の制作手法で凄いところは他にもある。
まず言語。日本では あまり映画の売りとはされていないようだが、イエスが生きていた時代に近い言語を採用しているという。ユダヤ人は紀元一世紀のアラム語、ローマ人はラテン語とのことだ(パンフレットより)。こだわってるね。
そしてリアリティ。──というよりは、リアリティと伝統的イメージとの兼ね合いである。この映画では「受難」をリアルに見せることが主眼であるが、これは最新研究により推定されている史実とは必ずしも一致しない。むしろ伝統的に描かれてきた宗教画のイメージを継承する形で造形されているという。たとえばイエスが十字架にかけられる際に釘を打たれたのは手首だったというのが定説だが、ここでは従来の宗教画のように手のひらに釘を打たれている(この他にもパンフレットでは「ゴルゴダの丘」が史実では広場の刑場であったことが紹介されているし、また画づくりに宗教画を参考にした旨も述べられている)。
リアリティを追求している筈なのに、なぜ史実を元にしないのか。それについてとやかく言う気は私にはない。なぜなら「映画」として作られたのであり、(私の感覚では)絵画と呼ぶに相応しい作品だからである。ニュース映像やドキュメンタリーではない。作者の美学が表現された芸術作品なのである。すなわち、メル=ギブソンによる現代の宗教画と言えるだろう。
私はこの作品でイエスの「受難」を目の当たりにした。これでキリスト教へ傾倒していくのだろうか──って、するわけないじゃん。
あの作品で描かれているのは、まさしく宗教の理不尽である。イエスという人物には確かに惹かれる(そりゃ多くの人によって作り上げられた理想像だからね)。しかしその弟子とされる連中・キリスト教徒はどうよ? 今のキリスト教徒と言えば、無辜のイスラム教徒を虐殺し続ける猿顔の「大統領」が真っ先に思い浮かぶ訳よ(もちろん「無辜」でないイスラム教徒もいる訳だが、それはキリスト教徒も同じ。犯した罪によって裁かれるべきは罪人本人であって、その周辺住民ではない)。奴らはイエスの痛みをすっかり忘れているって証拠じゃないのか?
まぁ久しぶりに聖書を出して読む気にはなったな。最も古いマルコ伝から順番に。
最後に、関連書籍を紹介しておきたい。『パッション』のパンフにも何冊か紹介されているが、これらは全てキリスト教系の出版物であろう。それは自ずと『パッション』の制作意図(キリスト教への帰依)と重なってくる所とは思う。
しかし私のような不信心者(ちなみに実家では浄土真宗と関わりがある)にとっては、聖書に耳を傾ければそれで充分ではないかと思ってしまうのだ。イエスの言行、弟子たちの思いは全てあそこにある。
──もっとも、ここで紹介したいのは それとも立場を異とする本だ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/
4140054115/250-0153343-7239409
「Amazon.co.jp: 本: イエス」
──安彦良和による『イエス』。聖書での記述を基礎とし、現代的視点を加味した上でイエスを描き直している。伝統的宗教観で描かれた『パッション』とは正反対で、その描写を補完し合う位置にある(安彦版『イエス』では人物描写に力を入れている点も含めて)。キリスト教に格別の思い入れの無い私には、むしろ安彦版『イエス』での描写の方が共感できるところなのだな。
特に、冷静なユダの立ち位置が見もの。
投稿:by 暇人#9 06:49 午後 [感想, 映画(ビデオ含む)] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.07.06
『ボウリング=フォー=コロンバイン』 DVD ──マイケル=ムーアの「ノン=フィクション」

──買っちまった。ビックカメラのポイントが溜まってたものでね。『華氏911』 のことを気にしていたから、購入の踏ん切りが付いたという理由もあるが‥‥。
この映画、実は劇場公開時に見ているのだ。だいたいはビデオで初見することの多い この私が珍しいことに。もちろんビデオでも借りて見直した。それでも今回 DVD で買っているのだから、それだけ高く評価してると思って戴きたい。
わざわざ DVD で買う以上は、これからも何度も繰り返して見る訳。良い映画は何度も見れるものだから、“大量消費音楽”とは違って :-P。
日本語吹替版が同時収録されているのも、 DVD を買う利点である。勿論こっちの方は購入後すぐに見た。劇場や字幕版とあわせると、通算5、6回は見たことになる。吹替版の方も、なかなかドキュメンタリー形式を意識した良い演出だったように思うよ(DVD を持ってる人は、ぜひ両方で楽しんで戴きたい)。
実は、本邦未公開の 『The Big One』 も見たくて DVD 初回盤(でも初回盤以外の商品ってあるの?)を買ったのだけど、あれってボックスセットのみの収録なのね。私が買った「デラックス版」には入ってなくて何だか騙された気分だ(今更ボックスセットで買い直す気になれないし、単品でも売ってくれよなぁ>発売元。ボックスの方はもう売り尽くしたんでしょ?)。
まぁ目当て(の ひとつ)が入ってなかったものの、同梱されていた本が意外に読み応えがあったので良しとしようか。以下がその目次──
●『マイケル=ムーアを突撃するまで』
単独インタビュー
●『恐怖報道の現在を問う』
映画にも登場したグラスナー教授への
インタビュー
●論評5本
●『「コロンバイン高校乱射事件」を考え直す、
アメリカ映画12選』
●『「ボウリング=フォー=コロンバイン」
キーワード&キーパーソン解説』
●『検索エンジンが雄弁に語る、
MM現象』
関連リンク集
●『MMの履歴』
●MM作品
これだけで単独のムックとして成立するほどの内容。DVD 1枚とこれが付いて 3000円くらいだったら買い得感があるねぇ。
──実際は 4935円(税込)だったんだけど。高ッ。
『ボウリング=フォー=コロンバイン』は「ドキュメンタリー」と呼ぶに相応しい内容か?否、あれは「フィクション」なのだ──と批判する向きもあるらしい。その急先鋒と言えるのが ここのようで。
http://www.hardylaw.net/Truth_About_Bowling.html
「Truth about Bowling for Columbine」
『〜コロンバイン』の中身は“捏造”だというのだな。
これが非常に長い英文で、「ウェブサイト翻訳」でも翻訳しきれない程。全訳してる人はいないかと検索にかけたものの、結局みつからなかった(誰か御存知の方があれば、教えて下さいまし‥‥)。
自分で英文を読んでいくしかないのか。──だからその真偽について私が判断するのは当分先の話になりそうである。
ちなみに概要をまとめている人はいて、それを転載した Weblog を紹介しておく。
http://ellington.gel.sfc.keio.ac.jp/nsly/mt/ns/000514.html
「network styly *: Truth about Bowling for Columbine」
(まさか ここの筆者も
掲載から1年以上経ってリンクされるとは
思ってないだろうなぁ‥‥。)
例の批判サイトに関しては、
『ボウリングフォーコロンバインはたしかに面白いよね。
でもあれはドキュメンタリーじゃあない。
っつーか不誠実で、詐欺だ。
だって真実を伝えてないもの。はい証拠は:』
ということで事実正誤を大量に列挙してる文章
──との説明。転載した内容そのもの(もちろん これは原文の筆者による手柄)も興味深いものではあるが、それ以上に こうした批判に対する見解に共感した。森達也氏(ドキュメンタリー監督)の発言を引用しつつ、次のようにまとめているのである。
『ドキュメンタリーは客観的事実なんかじゃない。
事実という素材を使った虚構といってもいい。
というかそもそも真実は一枚岩じゃない。(中略)
ドキュメンタリーはむしろ
カメラと被写体の関係性に監督が自覚的たりえるメディア。
たとえばオウムを単純に悪!って決め付けて
断罪するのがテレビなら、
ドキュメンタリーは彼らに近づいて自らを投影して、
なんでこんな事件がおきちゃったのかを
煩悶し葛藤するのがドキュメンタリーの
(というか森さんの)仕事なんだ』(中略)
上で紹介したBFCへの
『あれはドキュメンタリーじゃない批判』ってのは、
あまり的を得(原文ママ)てない、ということになっちゃう。
もちろん事実かどうかをたえず確認するってのは
大事な作業なのは間違いないんだけど。(←テキトー)
‥‥いえいえ、ここで謙遜されてはいるけど、その「事実がどうかをたえず確認するってのは大事な作業」という姿勢こそが、『〜コロンバイン』制作者でもなく批判者でもない我々に必要とされる部分だと思う。だからこそ私もリンクを張って引用する気になった訳で。
映画への批判に対しては、ムーア監督自身も言及している(その内容は実際にリンク先で読んで下さい)。
http://www.eiga.com/special/bowlingfor/02.shtml
「eiga.com [必見!注目作特集]」
見出し「お笑いゲリラ、マイケル・ムーアを直撃!」。
また、公式サイトでも明快な反論がなされていたようで



