1本の映画の修復のために、大多数の著作権切れ映画をあきらめろと?
黒澤明監督が1998年に亡くなって10年になる。黒澤作品で有名なのは『七人の侍』『用心棒』『影武者』など東宝で製作されたものが多いが、大映で1950年に製作された『羅生門』も、公開翌年のベネチア映画祭でグランプリ(金獅子賞)を獲得し国際的評価を得るきっかけとなった作品として代表作に数えられている。
その『羅生門』が、角川文化振興財団と米・映画芸術アカデミーとの大プロジェクトのすえ、「デジタル復元」を施されたという。『羅生門』のオリジナルのネガは可燃性フィルムだったため破棄されたとのことで、現存していない。そこで残された映写用ポジフィルムをもとに、長い年月のため付いてしまった傷やゴミの除去から、ポジフィルムに歪んで定着した像の修正まで、オリジナルのネガをイメージして復元する作業が行なわれた。
こうした作業は、文化遺産を後世へ伝えるという点では意義深いものだ。映画フィルムは年月を経ることで劣化し、写っている像が薄くなったりフィルムそのものが収縮・変質したりする。そうなる前にデジタル化などの保存措置をとらないと、フィルムの劣化と一緒にそこに記録された映画そのものも失われてしまうことになる。しかしその一方で、映画というのは観客に見せて興行的収入を得る側面もある。それを見込んで投資されるものだ。今回の『羅生門』の「デジタル修復」も、すでに劇場にかけられたりブルーレイディスクでの発売が決定していたりする。
『羅生門』の「デジタル復元」にまつわる報道は以前からあったようだが、復元の完了を伝える最近の報道で気になるものがあったので、ここで取り上げてみることにした。というのも、著作権との絡みが示唆されていたからだ。
毎日新聞の記事(2008年12月13日付・夕刊)によれば、この復元プロジェクトの旗振り役は角川グループの角川歴彦会長だという。このこと自体は、プロジェクトに「角川文化振興財団」が関わっていること、大映映画の著作権は現在角川映画が所有していることから、意外な話でもない。この記事で目を引いたのは、米国での上映会を訪れた角川氏が発言したという内容の方だ。
いわく、「3次利用のネットで、海賊版をなくし、わずかなお金でも回収する仕組みを作りたい。国のサポートや著作権延長などの例外的な措置も必要だ」。同記事によれば、復元には約6000万円の費用がかかっているという。確かにそれを回収する仕組は必要だろうし、いくら劇場上映やブルーレイ発売といっても、回収は簡単でないだろう。角川氏がかつてから必要性を説いてきたような、ネットでの「3次利用」に望みを託すのもわかる。しかし、そのサポートで求めるのが「著作権延長」なのか?
この文脈で「著作権延長」を求めることの妥当性を考える前に、まずは映画をめぐる「著作権」ありようを振り返ろう。これが少々ややこしいのだ。
著作権法での基本的な設定では、著作物を作ったときに著作権を得るのは制作した本人(著作者)だ。制作のための資金を出した者が著作権を得られる仕組みではない(ただし契約で、資金を出した者へ著作権を譲渡することはできる)。しかし映画の場合は、制作した者ではなく、資金を出した映画製作者へいきなり権利が発生することになっている。この特例のような仕組みは、映画製作者が「自らの発意と責任において」映画の製作を行なっており、巨額の投資を著作権収入によって回収する必要があるからという趣旨で説明されることが多い。
また、その著作権の保護期間についても、一般には著作者の「死後50年」までとされているところを、映画の場合は「公開後70年」と定められている。映画製作者の多くは企業で、「死後」の計算ができないからだ。ちなみに、映画製作者に著作権が発生するとした現行の著作権法が作られた(1970年)直後は「公開後50年」とされていた。そうだったのが2004年に、映画業界の強い要望を受けて20年延長された。
『羅生門』は1950年の製作ということで、この延長の対象とは考えられていなかった。著作権が延長されたのは1954年以降の製作映画だった。ここだけで考えられれば、『羅生門」は公開後50年を経過した2001年には著作権が切れてしまっているかに思われる。しかし、著作権法には他の規定があって、『羅生門』の著作権が切れていないということになってしまったのだ。
『羅生門』の著作権が切れたのか切れていないのか。そこを直接争った裁判がある。黒澤監督の安価なDVDをめぐっての裁判(この裁判のことをまとめた、信頼するブログにリンクしておく)がそれだ。報道で見て覚えていらっしゃる方も多いのではないだろうか。著作権切れした映画を収録した廉価DVDが書店やスーパーなどで売られるようになってかなり経つが、その中に黒澤作品(ただし1953年以前のもの)もいくつか含まれており、その黒澤作品を売った業者を相手取って東宝・松竹・角川映画がそれぞれ訴えたものだ。
この裁判で注目されたのが、旧著作権法の規定では、映画の著作者の死後38年まで著作権が存続するという点だった。加えて、現行法にも、旧法の規定どおりに保護期間を計算した方が長い場合には、その旧法の計算に従うよう書かれている。問題になった黒澤映画は旧著作権法のもとで作られたから、1998年に亡くなった黒澤監督が「著作者」なら、「公開50年後」よりも後の2036年(死後38年)まで著作権が存続するということになるのだ。
このように、裁判で黒澤映画の“延命”が確定してしまい、我々ユーザーにとっては安価に黒澤作品を楽しむ機会が奪われた格好になってしまった。『羅生門』を例に価格を考えると、デジタル復元される前のDVDは3990円で販売されていた。いわゆる廉価DVDは1000円程度だ。収録された映像の質に違いがあるとは言え、約60年も前の映画に今の人が払うべき対価がいくらか考えたときに、ユーザーが選択する幅をこうして失ったことは大きいように思う。ちなみに復元版はブルーレイディスクで鑑賞できるようになるが、実際の販売店でそこから値引きされるとしても、4935円というのは1本の映画としては結構な値段だ。
もっとも『羅生門』については、高い高いとは必ずしも言えない特殊な場面もあり、『KADOKAWA 世界名作シネマ全集』という映画DVD付きの書籍シリーズが発売されていて、そのうちの1冊で当の『羅生門』(もちろん復元前の映像だが)と東宝の『生きる』をセットにした、黒澤作品特集の号があった。それぞれのDVDを購入するよりもかなり安価で黒澤作品が入手できるという、評価できる企画ではあった。
とは言え、そうした角川グループの努力を評価した上でも、著作権の保護期間延長の要望を妥当と考えることはできない。『羅生門』のようなわずかな作品の修復や販売のために、他の作品をも巻き込んで保護期間を延長することが、ユーザーの利便を失うこととのバランスが取れたものとは考えられないからだ。
そもそもの話、『羅生門』の修復は、著作権が存続していなければ施されなかったのだろうか。もしそうだったとしたら、そうした修復を今後も他の作品に施すために、それらの著作権も延長していくべきなのか。
シンプルに考えたい。過去の作品に付加価値を付けるため、少なくない投資をしてリマスターや修復を施す。その結果、多少は高い商品として市場に再投入される。そこまではまだ理解できるのだ。その結果に価値をユーザーがいれば買うだろうし、価値を感じなければ買わないだろう。
しかし問題は、そうしたリマスターや修復というのは強要されなければならないものか、だ。リマスターや修復は、単なる保存とは違う位置づけで考えられている。だからリマスター・修復を口実にして保護期間の延長が求められたりするわけだ。それらが引き替えにされてしまうことで、廉価でその作品が提供される機会を失ってしまったり、著作権切れすることで多く生まれるだろう次なる作品への利用を奪うことをどう考えるべきか。『羅生門』だったり、『ローマの休日』『東京物語』『二十四の瞳』といった修復を受けられた超有名作ならばまだしも、他の大多数の作品は映画会社の倉庫に眠り続けている。DVD化されていなかったり、もう廃盤になってしまっているものだってある。
個人的には、『羅生門』の修復は歓迎するし、それなりの対価も払いたいとは思う。しかし、こうした試みのために私自身が必要以上の負担を強いられるのはどうかと思うし、まして著作権制度のように社会全体を巻き込んで負担を強いるのは如何かと思う。『羅生門』だって、残念ながらこの社会の全員が修復に意義を見出せるものとは言えないだろうし‥‥。
短い新聞記事の僅かな記述に私が食いついただけだから、実際の角川氏の発言が違うものだったらそれに超したことはないのだが‥‥。ともあれ、この種の修復作業というのは、ビジネスで採算が取れる範囲内か、あるいは文化事業と割り切ってやってもらいたいと切に願う。
Posted by 谷分 章優 映画・映像, 著作権, 著作権保護期間延長問題 | Permalink
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