まぁ私も素人ながらブログで著作権を採りあげる身ですから、いつこのような指摘を受けるかもわからない──という意味では自戒も含めた感じではありますが。
http://blog.goo.ne.jp/copyright1971/e/81ac2516137d057eed29ee7ce40f26d6
「著作権の保護期間の延長」
(著作権法)
こんな記事があるブログさんに掲載されていました。
権利者団体の代表が記者会見で発言しているのではなく、一個人がブログで意見表明しているだけなんですがね、ここまで抽象的かつ観念的な意見で終わってしまってるのが何とも。痛さしか残らないというか。
もう少しは“反対派”の意見をリサーチして、じっくり考えた上で賛成意見を載せてもらいたいものです。具体的な根拠も添えて、ね。どうも新聞記事を読んだだけ、あとは自分のイメージだけで語ってる感じなんですよ。
権利者団体が保護期間の延長を求めて文化庁に要望書を提出し、また、慎重な検討を求める有識者がその旨文化庁に要望書を提出した
「慎重な検討を求め」た側を「有識者」と称しているのは筆が滑ったのか否か。あるいは印象操作でしょうか? 国民会議の発起人は殆どが著作者ですよ。名簿くらいはチェックしておいてもらいたいものですが。
保護期間の問題は、ある面経済問題ですが、創作に携わる人や創作物をどれほど大切にするかという文化芸術の問題でもあると思います
(延長要望派は)経済的な側面よりも、「しっかり保護してくれている」というその「気持ち」のような部分を重視しているのでしょう
著作権を保護すれば「創作に携わる人や創作物」を「大切にする」こととなるというのは あまりに短絡的な考え方であって、また著作権制度を一面的に捉えているに過ぎません。
既存の著作者(しかも商業コンテンツに携わる人)だけではなく、未来の著作者が再生産できる環境を整えていくのが著作権制度の役割であることも忘れてはなりません(「文化の発展に寄与することを目的とする」──著作権法第一条)。だからこそ利用促進の観点から異議が出ているのです。現在の利用者から未来の著作者が生まれてくる、いや個人で発信することが可能となった現在では利用者すべてが著作者となり得ます。
また「気持ち」などという、著作者が感情に流されて“身勝手”に要求しがちなものを、どこまで社会が許容するか──著作権制度はその線引きでもあります。流通させる・させない、他人の表現の幅を制限する・しないといった判断を著作者に委ねるのを許容するのか、そういう論点をも含んだ議論をしなければなりません。「創作に携わる人や創作物」が大切にされていない!などと著作者がどんなに叫んだところで、それを社会が認めないのであれば要求など実現しません。
著作権は天賦人権ではありません。社会的な制度なのです。常に多くの人々の間で権利関係が調整されている事実を忘れてはなりません(著作権法上の権利制限や限界等々)。
また、欧米での著作権政策は露骨に経済問題として扱われていることにも注意を要します。著作権保護期間を延長する“メリット”は経済面にあるのですから当然といえば当然です。“金の問題じゃない”などというナイーブな発言は全く妥当しない問題なのです(敬意なら金を介在させなくても示せますし、むしろ自由利用が進んだ方が敬意を示しやすくなると思いますがね。それとも何ですか、他人に対して利用とか表現を妨害したいという意図なんでしょうか)。
国境を越えて利用されることが多い「著作物」の保護は、一般論としては先進国共通の保護内容とすべきではないでしょうか
損得の議論がありますし、知的財産権法の権威である研究者までもそのようなことを言っておられますが、それはあまりにも「途上国」的な発想ではないかと思います
この「先進国」レトリックは保護期間延長を求める人たちがよく使うものですが、そもそも「先進国」「途上国」との括りで話し出すところが非常に滑稽です。そもそも「途上国」で何が悪い(笑)。
輸入・輸出のバランスからすれば日本の創作市場は明らかに「途上国」です(内向きの創作が殆どですしね)。保護期間延長によって利用・創作の自由度は(それによって得られる経済的メリットに比して)圧倒的に制限される。このあたり、欧米のような、輸出で莫大な利益を得られる国とは事情が異なります。
「損得」にしても、金の問題だけではありませんね。著作権切れ作品の自由利用がもたらすメリットは計り知れないものですし(何せ利用方法を考えれば考えるほどメリットが拡大するのですから)、しかも欧米よりも先に著作権が切れることで日本文化への吸収を先行できます。これは文化競争政策上 重要なメリットだと言えます。
ただでさえコンテンツ市場での新技術の実用化が致命的に遅れる(それどころか実用的な技術の殆どは輸入に頼ってしまっている)日本、これ以上 著作権の副作用を甘受する必要はありますまい。この副作用である利用制限が拡大していけばコンテンツ「途上国」化はさらに進むことでしょう。音楽配信・動画共有・ファイル共有・デジタルアーカイヴ等々、技術とコンテンツ流通が相互作用で発展する以上、パブリックドメインの流通を豊かにすることで こうした新技術の登場と普及を促進する望みを繋ぐことができるのです(現行商用流通に期待できないのは現状を見れば明らかであって、望みはパブリックドメインないし許諾済み自由流通作品にしかありません)。
そして。流通が広がったところには新たな創作が発生します(いつまでも旧作品の流通では続きませんからね)。過去の文化を浴びて育った者たちが自分の表現を始めるのです。この「過去の文化」をどれだけ多様に享受できるかで後の文化の多様性をも決定してしまいます。著作権の保護期間を延長することは、こうした未来の可能性を閉ざすことになる。
「星の王子様」が、保護期間が切れたことにより多くの翻訳が登場したといいますが、そうした翻訳が出版される経費のうち、権利者に支払われるべき金銭はいったいどれほどなのでしょうか
やはり金の問題ですか。
いや、そもそも著作権切れ作品というものは、もはや創作の対価を「権利者」に支払わなくても良いと社会が認めたものです。別の言い方をすれば、現状の“創作後の著作者の余命+ 50 年”の保護で充分であると社会が認めているということです。私に言わせれば(期間も内容も)保護し過ぎでしょう。
金云々以上の問題があります。『星の王子さま』は岩波書店が翻訳権を独占していたのです。こういうことが可能な点は著作権の本質的問題だと言えます。第三者が交渉費用や使用料の発生を嫌い新訳を諦めてしまうような制度であって、権利独占者が他者との競争を回避できてしまいます。このような状態が“創作後の著作者の余命+ 50 年”も継続するのが適切なのか否か。さらに 20 年も延ばすことが必要なのか否か。
『星の王子さま』はたまたま絶版にならなかったから まだしも、こうした出版の独占契約は多くの場合「絶版」という形で作品自体の存在をも消してしまうことになります。ボランティアベースでなら(いや有償でもインターネットベースでなら)流通させられたかもしれない(いやこれからならば間違いなく流通可能な)作品を、旧来の商用流通に見合わないというだけで死蔵させてしまう場合が圧倒的に多いのです。
すでに充分な保護を得られている(流通量としては僅かな)著作物から発生する「金銭」を生じさせるために、流通せず文化に帰すことすら不可能となってしまう圧倒的多数の著作物を犠牲にすることが適切なのか否か。ここに触れず保護期間延長問題を論じることは(文化の恩恵を受けている者として)到底許されるものではありません。
日本は「自由貿易」でもって、今日の経済的な繁栄を勝ち取り、その成果を謳歌しています。そういう国は、国際収支面の「損得」の議論というよりも、「国際協調」を大切にすべきではないでしょうか
著作権が自由貿易に反し得るものであることは件の「レコード輸入権」(正しくは商業用レコードの還流防止措置)が示しているのですが、それはともかく。自由貿易云々はこの問題とはまったく関わりありません。
「国際協調」を言うのであれば、欧米だけを見るのではなく もっと大きな枠組みでの「国際」条約に基づいて考えねば筋は通りません。ベルヌ条約では保護期間について最低保護ラインを定めるのみであって、あとは各国の判断に委ねています。すなわち保護期間をどれだけ延長するかについては「協調」をとる必要があるとはされていない訳で、また別の言い方をするなら(筆者氏が「協調」にこだわるのなら)むしろ欧米の方が協調を乱しているということになります。
なお欧米が著作権を延長するのは「損得」による判断だということをお忘れなく。
創作をする方々の気持ちを大切にしたい
将来に創作を行なっていく者について無視しておきながら「創作をする方々の気持ち」がどうのというのはおかしいのでは? 彼らの権利(知る権利や表現の自由)を抑圧しかねない側面についてはどうお考えなのでしょうかね。
しかも保護期間延長賛成派の意見の多くは権利管理を生業とする団体によるものです。著作者本人としての意見は非常に少ない(現場の声が聞こえてこない)。どれだけの実著作者がそれを望んでいるのか見えてこないだけに、「創作をする方々の気持ちを大切にしたい」という言葉が空々しく聞こえます。
むしろ国民会議の発起人の殆どが実著作者であることに注目しなければなりません。彼らの意見もまた「創作をする方々の気持ち」なのです。ついでに言えば、我々ブロガーだって著作権法上の著作者です(私の「気持ち」はクリエイティブ・コモンズ・ライセンスとして表明していますが)。これもお忘れなきよう。
保護期間の問題は、先に触れたように、「経済問題」だけではなく、「文化芸術政策」の問題でもあります
既存の著作物の保護を強化することが「文化芸術」にどう資するのか。ネタ元記事では「気持ち」のことしか書かれていませんが、これを許容するメリットが弊害に比してあるのか否か。
何度も書きますが、著作権の強化は他者の文化活動を制限することに繋がります。本来はここまで斟酌して初めて「文化芸術政策」と呼べるようになるのです。したがって保護強化をしないという選択もひとつの政策です。
保護期間を延長することで未来の著作物に発生する弊害は次のようなものが考えられます。
「翻案権」の拡大によって許される表現がより限定されていき、新たな著作物の創出を妨げて再生産が進まなくなります(今以上にね!)。「複製権」が及ぶことでアーカイヴ作成が禁止されてしまい(アーカイヴ作成が 20 年停滞します)、発表当時は流通していた筈の文化が消えていってしまう。また筆者氏はお好きではないようですが、金の側面(商用利用)について言っても、新規製作へのインセンティブが今以上に低下します。手軽に一定の金を稼げる方法へ流れてしまい、ただでさえヒット作のリマスターやらリメイクやらが跋扈してる現状がさらに進みます。
※パブリックドメインの流通が活発になれば“隠れた名作”のリメイクなどが可能になるでしょうが、保護期間延長ではそれすら断たれてしまいます。
せめて著作権の分野で、創作を大切にする姿勢を示さなければいけないのではないか
すでに充分な保護を得られている著作物に、さらなる保護を与えたところで「創作を大切にする」こととなるのか否か。私はそうは思いませんね。
保護を強化すれば「創作を大切」にできるなどと考えるあたり、筆者氏は「創作」をやったことが無いのでしょうか? (あれ、でもブログは書いてますよね?)
肥沃な文化空間があってこそ、その中で育った者が創作を始めるものなのです。文化利用が文化を生み、継承されていく──その繰り返しです。
文化の継承は、決して現行の著作物商用流通だけで維持されるものではありません。むしろ商用流通はわずかな期間のみで(金にならないという理由づけで)打ち切られてしまい、後は権利の及ばない態様で細々としか流通しないのが殆どです。例えば私的複製や図書館での資料提供などの、個人の努力によって文化が維持されているのです。著作権の強化はそうした努力をも危機に陥れることとなります。
著作権保護期間延長によって、目に見える形で最も強い影響を受けるのは『青空文庫』でしょう。しかし目に見えない形でも、文化継承の危機が発生するということを意識すべきです。文芸著作物や漫画等の「絶版」、映画著作物の「絶版」(パブリックドメインの作品ですら日本映画は流通しづらいという事情も状況を更に悪化させています)、音楽著作物の「廃盤」(しかも従来より低コストで流通させられる筈の音楽配信にすら載らない廃盤音源ばかり)などなど。
著作権保護期間が満了した作品の流通は、こうした現状を僅かでも回復しようとする試みを可能にします。こうした文化継承を 20 年も停滞させて構わないのか。ぜひ考えてください。
保護期間の延長は、経済的には大きな影響はない
死後50年を経過しそうな者の作品の利用はいったいどれだけあるかと考えると、著作物全体の利用からすれば極わずかでしょう
このあたりは暴言と言わざるを得ないというか、そもそも筆者氏の主張すら覆してしまうのですよね。「死後 50 年を経過しそうな者の作品の利用はいったいどれだけあるかと考えると、著作物全体の利用からすれば極わずか」であるのなら、著作権を死後 50 年から延長するメリットは殆どないということになります(それに比べデメリットは既に述べた通り──文化を殺す行為に等しい)。
まずは国民会議のサイトを御覧ください。死後 50 年を経過しそうな著名著作者のリストが掲載されています。ここにある著作者の作品を利用する際に、(延長が実現してしまえば)今後新たに対価が発生してしまうということは確かに言えるでしょう。その意味では遺族にとっては“利益”かも知れない。
しかしながら、あのリストの裏側に膨大な無名著作者(いや著名であってもあそこに現われなかっただけかも知れない、存命中は著名であっても今は知られていないだけかもしれない)がいること、そして彼らによる膨大な著作物が眠っていることを忘れてはなりません。著作権が延長されることで、それらが我々の目に触れなくなるということを示しています。
延長が実現していない今ですら我々はそれらの著作物と触れていません。あと数年で保護期間が切れれば、そのうちのいくつかと出逢える可能性がまだ残されているのです(『青空文庫』のような活動を通して)。しかし保護期間が延長されれば、その望みは(少なくとも 20 年間)断たれます。
※将来 商用利用で復活する? そんなこと期待できません。今まで(著作者が亡くなってから 50 年もの間)満足に流通させられずに我々の目の前から消えてしまったものばかりなのですから。
筆者氏の上記の発言(引用部)は、著作権制度の弊害を端的にしめしたものと言えます。それどころか保護期間延長のデメリットを端的に協調しているものとも言えます。もちろん延長賛成の根拠には全くなっていません。
私がここまで絶版・廃盤著作物のことを(口を酸っぱくして)繰り返すのは、著作権保護期間を延長する際にその対象となるのが商用利用される著作物だけではないからです。商用流通していた著作物の陰に、更に多くの非商用著作物が隠れているのです。忘れてはなりません。
保護期間延長の問題は、我々が(自身の著作物について)「死後 70 年」の保護を望むのかという問題でもあり、また我々が(他人の著作物について)「死後 70 年」まで著作物利用許諾を得ようと努力できるかという価値判断でもあるのです。
権利者との連絡がうまくいかないから著作物を利用できないとか、そういう面での影響も考えられますが、それは50年となっている現在でも問題とされており、保護期間の延長問題とは別に解決されるべき課題であり、延長問題とリンクして語られるものではない
害悪の発生が明らかであるのに、それを拡大させる政策を採るのはあまりにも愚かです。上記問題を「延長問題とリンクして語られるものではない」とするのではなく、むしろ延長問題の前提として解決策を議論すべきです。
現状、これを解決する手だてが著作権法上 用意されていません。したがって延長を議論するのは時期尚早です。(まぁ延長問題が政策議論の俎上に上がりそうな現在、それを言っても始まりませんがね。)
「えいや」と使っていいことにして、後から登場した権利者には、その権利行使に限定を加えるとか、そうした措置を取るべきでしょう
こうした著作権制度であれば、確かに延長への反対は出づらいだろうと思います。
ただし現行の著作権制度はその真逆です。何せ許諾がなければ(権利制限が定められた利用態様でない限り)禁止されるというのが今の制度。根本的なパラダイムシフトをしなければ延長の弊害を消せない証拠でもあります。
筆者氏の意図とは真逆の解釈でしょうが、論理的に読めば延長賛成の論拠にはなり得ないということです。かりに延長が肯定されるとすれば、それは上記の「限定」「措置」が実現してからの話です。今ではありません。
著作権制度の本質的な問題点は常に意識しておくべきです。
著作者らに正当な対価を還流させるということ(この一点をもってしても現状の著作権制度の運用がおかしいのではないかと思われますし、またこの対価還流の徹底を目的とする法改正なら理解も得られやすいと思うのです。しかし著作権保護期間延長問題は、著作者本人とは関わらないだけにかなり離れたものとなります)以上に、他人の著作物利用・使用や新たな創作に対し既存著作者のコントロールを認めてしまうという側面があります。著作権制度をどう設計するかは、日本の社会が既存著作者らに対してどこまで独占権を許容するのかということと同義です。いちど社会に“放流”した文化は誰かにコントロールされるべきなのか否かという価値判断も含まれます。
つまり「創作に携わる人や創作物をどれほど大切にするか」などという“純情”(別の側面では一方的かつ独善的)な理由のみで議論すべき問題ではありません。保護期間延長が社会に与える影響を子細に検討し、かつ社会のコンセンサスとして著作権制度を維持していくという前提のもとに考えていかねばならないのです(コンセンサスが取れなければどうなるか? 著作権侵害がどんどん増えていくのは間違いありません)。
最後に、筆者氏 (copyright1971 氏)へ。
この問題は、場当たり的な意見表明で済ませられる問題ではありません。とりあえずは“反対派”の意見(国民会議のサイトを参照ください。記者会見の模様も MP3 で聴けます)をよく吟味し、それに対する反論をブログに掲載してください。
もちろん私は筆者氏が延長に「賛成」すること自体をとやかく言う気はありません。もう少し有益な「賛成」意見が読みたいだけなのです。